十四回にわたって連載してきたこの「周作口談」もいよいよ今回が最終回である。あの先輩についても、この友人についても書きたかったのであるが、引きぎわのいいのも男というから、このあたりで退散しよう。そしてこの最終回は、狐狸庵山人について話をすることにする。私はかつてこのふしぎな老人について次のように説明したことがあった。
「実をいうと我々文士のあいだでは狐狸庵山人について折々、話題になることがあるが、その話はいつもたいてい次の言葉から始まるのである。
『一体どんな人だね』
と言うのは我々の中で山人と特に親しく交わった者は一人もいないからである。その年齢についてもある者は六十歳といい、他の者はすでに七十歳をすぎていると語るが、定かではない。とにかく、かなりの老人であることは確からしい。
その上、この老人は『世を厭うた』と称し相州|柿生《かきお》の山里に草廬、狐狸庵をあみ、ほとんど東京に出てこない。もちろん文壇の会合、出版パーティ、その他もろもろの集まりにも顔を出したことはない。だからその声に接したものも非常に稀《まれ》である。
それではそれまでの山人は何をしていたのかと言うとこれまた不明。一説では彼は京都の公卿、田抜小路子爵の息子であり、若い折、遊蕩にふけり云々というが、他方、四谷三丁目で薬罐《やかん》屋をやっていたという話もある。山人の文章をよむと行間から俗臭フンプンたるものがちらつく。がこれは育ちのいい人間でないことを証明するもので、私のような作家ならこのくらい、すぐわかるのである。田抜小路子爵といえば一条家、近衛家とならぶ堂上公卿の名門だから、その子孫がかかる俗臭フンプンたる文章を書くはずはない。彼は自分は俗塵を棄てた世捨人、花鳥風月を愛するばかりである、としきりに言っているが、実は世捨人どころか好奇心ばかり強い意地悪爺さんでなかろうかと言うのが私の意見である」
これを書いたのは今から二年前であったがその後私はある機会からこの狐狸庵山人にインタビューをすることができ、以後、折あるごとに柿生の山ふかい彼の庵をたずねるようにした。