山人は「若かりし頃」八笑人をも理想としたと言っているが、後年、年よりになるまでこの憧れをもち続けたらしく、今から数年前文士に手紙をだし、今後は風雅の道をたがいに歩むべく、本名とは別に雅号をつけ、八笑人の境地を味わわんと書き送ったのであるが、数人以外はこの馬鹿馬鹿しい申出を相手にする人はいなかった。その数人のなかには、私が今まで書いた梅崎春生氏や安岡章太郎氏、三浦朱門氏、曽野綾子氏などがあり、安岡章太郎氏はその後、窓雨亭黄斎と名のり、梅崎氏は練馬大王、三浦氏は白鬼庵、曽野氏は眠女と称しているようである。もっとも梅崎氏が自分を大王と後輩によばせるのは我々には甚だ迷惑であり、安岡氏の窓雨亭黄斎というのは何やら「くさい」を連想させて頂けない。
狐狸庵は前記のごとく、鹿追いの音、珍妙にして、季節ならぬ山鶯の声に驚かされることはあるが、それでも春になると雑木林に桃花、点々として、その雑木林の上を流るる流れにメダカは泳ぎ、ツクシ、セリはあまたとれる。狐狸庵山人はヘチマを好み、夏にはヘチマ棚の下でしばしば仮眠をむさぼり、午睡よりさめた後、渓流にひやした西瓜、瓜を私にたべさせてくれたことであったが、それはいかなる冷蔵庫のものよりも冷えていて、うまかった。また庭の竹をきってそのなかに酒を入れ暖めて飲ませてくれたこともあったが、竹の匂い酒にしみて、これまた風流であった。かかる生活は次第に今の東都では味わえぬので、山人の花鳥風月のみを友とすると言う言葉には多少首をひねるところもあるが、まあ諸君も見のがしてやってください。山人についてはその風雅の友、田辺|日念暮亭《ひねくれてい》主人が記述するものがあるので、次にそれを写しておこう。