そのとき妃は、「さねさし さがみの小野にもゆる火の 火中(ほなか)にたちて 問ひし君はも」という歌を残していきました。これは、「焼津で火攻めに遭ったとき、その火の中で、あなたは私を心配してかばってくださった。その面影を抱いて、私は海に入ります」という意味です。
日本武尊は首尾よく敵を平らげ、足柄山にもどってきました。そして、そこから相模湾を見下ろし、海に沈んだオトタチバナヒメを偲んで、「吾妻(あづま)はや」(わが妻よ)と三度呼びかけました。そこから関東地方(東国)のことを「あづま」と呼ぶようになったんですね。
また、彼が使っていたという剣が現存しています。そして、この剣にはさまざまな物語が遺されています。父・景行(けいこう)天皇の命令で相模国(神奈川県)に遠征した日本武尊は、敵にあざむかれて、野原の中に入ったところ、野に火をつけられて、あやうく焼き殺されそうになります。そのとき、出征にあたって、叔母の倭比売命(やまとひめみこ)から与えられていた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を薙(な)いで助かり、逆に敵を焼き殺しました。このことによって、この剣を「草薙(くさなぎ)の剣」とよぶようになり、その後、この地を焼津(やいづ)と言うようになったのです。
日本武尊が亡くなると、妃の宮簀媛命(みやずひめのみこと)が草薙の剣を祀り、これが熱田神宮の由来となりました。草薙の剣は、三種の神器として、歴代の天皇に受けつがれる皇位のしるしとなり、今なお熱田神宮に現存しています。焼津の地名ももちろん残っています。