『日本書紀』によれば、推古天皇13年(605年)、聖徳太子は、それまでの住まいだった飛鳥の上宮を引き払い、斑鳩に移り住んだとされます。そこで斑鳩宮を造営し、607年に法隆寺を建立しています。この突然の引越しの理由については、いくつかの説があります。一つは、冠位十二階の制定が603年、十七条憲法の制定が604年で、これ以降はとくに聖徳太子の政治面での成果が見られないことから、政治の第一線から身を引いた、すなわち、蘇我馬子との政争に敗れたとするものです。
二つ目は、そこまででないにしても。何らかの理由で蘇我馬子と不仲になったとするものです。聖徳太子は馬子の娘と膳(かしわで)氏の娘の二人の妻を娶っていますが、斑鳩は膳氏の本拠地です。片方の妻のもとに身を寄せたというのは、蘇我氏との関係が悪化したことは充分考えられます。三つ目は、むしろ積極的な理由によるもので、難波に近い場所に移転し、対外交渉を推進しようとしたというものです。
どれが本当の理由なのか、今となっては皆目分からないのですが、『天皇記』『国記』などの歴史書を編纂したのが620年ですから、その後も文化事業に注力していたのは間違いありません。