若くして橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、一子・則長(のりなが)を生みましたが、則光とは離別、その後宮仕えに出仕、後に藤原実方(ふじわらのさねかた)と再婚しましたが長続きせず、晩年には藤原棟世(ふじわらのむねよ)と結婚して小馬(こま)という女子を出産したらしいという説が一般的です。
晩年には父・元輔の旧邸があったところで、定子の御陵にも近い月輪(つきのわ)(今の京都市東山区今熊野町)に住み、60歳近くで没したのではないかといわます。後世の説話として、零落した晩年生活であったとか、地方を流浪したとか伝わっていますが、これは美女、才女の流浪伝説にすぎないと考えられます。
清少納言が、定子に出仕した時期は、993年ごろ、定子18歳、清少納言は28歳のときです。当時は定子の父、関白・藤原道隆の全盛期であり、明るく聡明な定子の庇護のもとに、才能を十分に発揮した清少納言にとって、宮中生活は意にかなうものであったようです。
道隆が没し、道長の世となった後は、後身のない定子の後宮はにわかにさびれましたが、清少納言は献身的に定子に仕えました。
宮廷を辞去したのは、定子が24歳で崩御した後、ある期間の服喪を終えてからと考えられています。約10年間の宮仕えでした。