清少納言が始めて出仕したころは、中関白家の全盛期で、定子の宮廷生活も華やかに賑わい立つ日々でした。定子は生来のすぐれた資質に加え、父の明るい性格や母の学才を受けついで、周囲の人間をひきつけずにはおかない人柄でした。その並びない才色で、一条天皇の寵愛を一身に受けました。
しかし、長徳元年(995年)に道隆が死去すると、その栄華は一転します。政権を掌握した道長の圧迫を受けて、兄の伊周や弟の隆家は失脚させられました。伊周が大宰権師として京を下るに際し、定子はみずから髪を下ろして尼となりました。さらにその年に母も亡くなり、身辺は失意と悲しみに包まれます。それでも天皇のご寵愛は続き、定子は内親王と親王を出産しました。長保2年に皇后となりますが、内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去しました。
清少納言は、道長の世となった後も、献身的に定子に仕えましたが、定子が亡くなった後、ある期間の服喪を終えてから辞去しました。