遣唐使のおもな目的は、国際的な地位の確立と文物の導入にありました。当時の中国は東アジア世界の中心で、日本にとっては世界の大半といってもよいほどでした。
そして、その中国に対し、日本を文化的にすぐれた国だと印象づけることも重要な外交課題でした。白村江の戦い以来、関係が悪化していた新羅との席次争いでは、大伴古麻呂が新羅の上位になるよう強く抗議したこともあるといいます。
日本に持ち込まれた文物は、遣唐使みずから朝貢貿易の形で所持金と唐の下賜品で買い求めたものもありますが、多くは同行した留学生・留学僧が長年かけて収集したものを持ち帰りました。たとえば、吉備真備は兵学・音楽・暦学関係の多数の文物を、大和長岡らは法制の知識を伝え、空海・最澄は新しい仏教を導入しました。
しかし、遣唐使の航行には多くの犠牲をともないました。朝鮮半島西岸を進む北路は比較的安全でしたが、新羅と対立しだしてからは、五島列島の福江島から東シナ海を横断する南路、または石垣島から東シナ海を横断する南島路をとりました。
当時は季節風の知識もなく、海流を乗りきれるだけの船体構造の知識もありません。逆風や強い海流によって難破漂流し、死者・行方不明者が多数出ました。まさに命がけの使節であり、往復とも無事だったのは、およそ半分だったと考えられています。
894年に遣唐使となった菅原道真は、唐の衰退と航海の危険を理由に遣唐使の一時停止を提案し、ゆるされました。その後唐は滅び、遣唐使も廃止されました。