この「慶長遣欧使節団」には謎が多く、政宗は幕府に内密で大船を建造し、常長を欧州に派遣したのです。政宗が何を目的にしていたのか、史家の間でも意見が分かれていましたが、最近、政宗がスペインと同盟を結び謀叛を起こそうとしているといった内容の史料がローマで発見されました。
これは、当時、仙台藩で布教活動をしていたイエズス会宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスの書簡で、これが政宗の真意を示すものかは不明ながら、たいへん興味深い史料となっています。
家康にとっても政宗はいちばん気がかりな存在だったようで、味方に引き入れるために自分の六男・忠輝と政宗の娘を結婚させ、姻戚関係を結んでいます。
そのころの徳川家の身内も、まだ磐石とはいいがたい状況にありました。秀忠の息子の家光と忠長との間で家督をめぐる争いがくすぶっており、家康の孫・松平忠直は大坂の陣での功績に対する処遇に露骨に不満を示していました。
それを見た政宗は、女婿の忠輝を抱き込んで、天下取りをたくらみます。しかし、家康もまた老獪でした。政宗の不穏な動きを警戒し、忠輝に対し、日ごろの不行跡を咎め閉門蟄居を命じるという先手に出たのです。
政宗は家康に処分の取り消しを訴えますが、家康は応じませんでした。ここに至り、政宗の野望は潰えます。それから後の政宗は、ひたすら徳川幕府への従順に徹しました。晩年は食道楽にも凝り、悠々自適の生活を送りました。しかし、あるとき政宗は、家臣に向かってこうつぶやいていたといいます。
「自分があと20年早く生まれていれば・・・」