その間、新撰組の厳しい取締りによって京都市中の平穏は何とか保たれました。そのために、多くの尊皇攘夷派の人々が血祭りにあげられました。いったいどれだけの人数が犠牲になったか詳しく分かっていませんが、実は、それ以上に新撰組内部の粛清によって殺された同志の数のほうがはるかに多かったのです。
戦死以外の理由で死亡した隊士たちは約70人おり、そのうち40人近くが「士道不覚悟」などの理由で粛清されたものとされています。そのなかでも有名なのが、芹沢鴨(せりざわかも)一派と伊東甲子太郎(いとうかしたろう)一派を葬ったときです。
芹沢を粛清したのは1863年9月、新撰組がまだ創生期にあったころのこと。宿舎だった八木邸の自室で就寝していた芹沢を深夜に襲い、斬り殺しました。このころ近藤と芹沢は主導権をめぐって対立しており、芹沢は狂気的な粗暴さのある芹沢がリーダーとなれば新撰組の将来はないと危惧した近藤らが凶行に及んだものでした。
伊東甲子太郎の一派を掃討したのは1867年11月。伊東が門弟数人とともに入隊したのは1864年11月ごろで、伊東の人物に惚れこんだ近藤は、彼をいきなり参謀の地位に据えました。しかし、やがて伊東が諸藩の志士と交わり勤皇活動に傾斜したため、近藤らと対立。そして、同志を集めて新撰組を脱退しようとしたことから、近藤が配下に命じて斬殺。その死体を回収に来た一派をも待ち伏せして一挙に殲滅しました。
新撰組は、全盛期には実に150人前後の隊士を抱えていました。血気に逸るこれだけの人数をまとめるのは並大抵でなく、組織を守るためにやむを得なかったこととはいえ、何とも非情な殺戮集団だったのです。