その頃のアジア諸国が列強国と結んだ条約の理不尽さは、この比ではありませんでした。戦争に敗れて講和条約という形で国を開き、巨額の賠償金を支払わされ、領土を奪われ、植民地のような条項を飲まされたりするケースがほとんどだったのです。
その中にあって、平和的な交渉によって開国条約が締結されたのは、日米和親条約がはじめてでした。実際の交渉の経緯も、ペリーの「一戦も辞さない」という威嚇の言葉に対し、「双方に深い遺恨があるわけではないのだから、戦争する必要はないだろう」と冷静に受け流し、条約の中身に関しても、重要事項である通商条項を削除させ、開港も下田・函館の2港に限定、またアメリカ標流民の保護の条項に、日本の標流民もアメリカ側は保護せよと双務性を迫って承諾させるなど、なかなかの粘り強さを発揮しています。
極めつけは、「外国語で書かれたいかなる文書にも署名しない」と主張し、日本語の条約文のみに署名したことです。功を焦っていたペリーの心理を見抜いた巧みな交渉でした。
まかり間違えば国の存亡に関わる重大な局面にありながら、少しでも国家の利益を引き出そうとした、信じられないような冷静さと巧妙さであったと思います。これが本当の外交というものでしょう。さすがに260年もの長い期間、わが国に平和の時代をもたらしてくれた江戸幕府だと、あらためて拍手を贈りたい気持ちにさせられます。