※ 長尾景虎(ながお かげとら)ともいう。
上杉景虎(うえすぎかげとら)ともいう。
● 活やくした時代 1530年~1578年 戦国(室町)時代
● 活やくしたこと
1530年 越後(えちご 新潟県)の守護代(しゅごだい)の長尾為景(ながおためかげ)
の子として生まれる。
幼名を虎千代(とらちよ)と言った。
長尾景虎(ながおかげとら)と名のる。
1536年 父の長尾為景がなくなる。
兄の長尾晴景(ながおはるかげ)があとを継ぐ。
兄の長尾晴景(ながおはるかげ)は病弱で、武芸に欠け、当主としての
力量(りきりょう)がなかったため、弟の長尾景虎(ながおかげとら)との
間に対立が起こる。
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長尾家(ながおけ)の家臣たちが2つに割れて内乱が起こる。
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知勇にすぐれた長尾景虎(ながおかげとら)が勝利し、兄にかわって
当主になる。
1536年 長尾景虎(ながおかげとら)が長尾家を継ぎ、守護代(しゅごだい)になる。
1550年 長尾景虎(ながおかげとら)が長尾家をまとめ、守護(しゅご)になる。
長尾景虎(ながおかげとら)が越後(えちご 新潟県)を平定する。
1552年 関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(うえすぎのりまさ)が北条氏に
やぶれ、越後の長尾景虎(ながおかげとら)を頼って逃げ込んでくる。
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上杉憲政(うえすぎのりまさ)が長尾景虎(ながおかげとら)に関東管領
の地位の地位をゆずる。
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長尾景虎(ながおかげとら)が関東管領になり、上杉景虎(うえすぎかげとら)
を名のる。
1553年 信濃(しなの 長野県)の豪族の村上義清(むらかみよしきよ)が武田信玄
(たけだしんげん)にやぶれ、越後の上杉景虎(うえすぎかげとら)を頼って
逃げ込んでくる。
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川中島(かわなかじま)で上杉景虎と武田信玄(たけだしんげん)との戦いおこる。
川中島の戦い(第1回)
1559年 上杉景虎(うえすぎかげとら)が京都へ上洛(じょうらく)する。
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室町幕府(むろまちばくふ)に関東管領の地位を認められる。
1560年 前の関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を追い出した北条氏康
(ほうじょううじやす)を討つため、上杉景虎(うえすぎかげとら)が関東に攻めこむ。
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1561年 上杉景虎(うえすぎかげとら)が北条氏康の立てこもる小田原城(おだわらじょう)
を包囲する。
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北条氏康を滅ぼすことができず、越後(えちご)へ引き上げる。
村上義清(むらかみよしきよ)の領地を取りもどすために、上杉景虎
(うえすぎかげとら)が武田信玄(たけだしんげん)と川中島で戦う。
川中島の戦い(第4回)
【敵に塩を送る】
武田信玄と上杉謙信はお互い何度となく戦った敵同士であった。
ある時、武田信玄が今川氏を攻めたため、おこった今川氏は武田信玄に
塩を送らないようにした。武田信玄の領地である甲斐(かい 山梨県)は
山国であるため、塩がとれず人びとは生活に困ってしまった。この時、
上杉謙信は「武士は戦場で戦うものであり、塩や米を送らず、罪のない
人びとを苦しめるのはひきょうであり、武士がすることではない」といって
今川氏を非難(ひなん)し、上杉謙信は敵であった武田信玄に塩を送った
という。
1570年 出家(しゅっけ 僧になること)して上杉謙信(うえすぎけんしん)と名のる。
1573年 上杉謙信(うえすぎけんしん)が越中(えっちゅう とやまけん)を平定する。
1577年 上杉謙信(うえすぎけんしん)が加賀(かが 石川県)で織田信長と戦う。
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織田信長の軍を打ち破る。
1578年 病死(49才)
● 人 物 評
上杉謙信(うえすぎけんしん)は、毘沙門天(びしゃもんてん)を信じ、軍旗にも「毘」のマークを入れた。上杉謙信の生き方は戦国大名の中でも少し変わっている。それは理屈に合わないやり方に対しての戦いであった。そのため、領地をうばわれた関東管領や豪族たちを助け、うばった者へ戦いを挑む正義の戦いを行った。確かに他人の領地を奪うことは悪いことである。だが、この時代、弱い者が領地をうばわれることは当然のことになっていた。上杉謙信はそんな時代に怒りを感じていたのかもしれない。上杉謙信は京都に二度も上洛(じょうらく)をしているが、天下を統一しようとはしなかった。上杉謙信に少しでもその気があれば、その後の歴史はどのように変化したかわかない。正義のために生きようとした上杉謙信の生き方が通じる世の中になるといいのだが・・・。