放浪の俳人|山頭火《さんとうか》と放哉《ほうさい》は、一方は山の中を歩き、一方は海沿いを歩いたという話はよく知られている。
さしずめ、わたしは後者か。
好みとかライフスタイルは人さまざまで、そこが面白い。
そんなことを思ったのは、身内を病院に見舞ったときだ。
個室を逃れて四人部屋にきたという。
独りは寂しくて堪えられないらしい。
わたしは常々、死ぬときくらいは人に看取《みと》られずに(医療関係者は別)、できるならばさっぱり死にたいと口走っているから、病のときに人のそばというのが考えられないのである。
死ぬときひとりになるのがこわいとか、妻や子、友人に看取られて……というのが、よくわからない。
死ぬときくらい人のしがらみや煩わしさから解放されたい。
わたしは今から周りの人に頼んでいる。重い病気になったら、ベッドを上の部屋の窓側に置いてほしいと。
そこは慶良間《けらま》のうつくしい珊瑚《さんご》の海の他には何も見えない。どこまでも遠く、青い海原にひとり、ぽつんとある、というぐあいだ。
孤独不感症といわれたことがある。
わたしは得な性分で、友だちとわいわいやるのも好きだが、独りでいても、それが苦になるということはない。
なんだか自分がよくわからないのである。
樹木希林《きききりん》さんがロケの帰り、渡嘉敷島の家へ寄ってくれた。
この人はわたしと反対で
「どちらかというと穴蔵のような空間が好きだね」
という。
おおぜいの人の中も苦手の方だという。
すると、なんだか筋が通るのである。そう思っていたら
「ハイタニさんの家もいいね」
という。わたしの家は明る過ぎるのに。もっともこれはお世辞かもしれない。ところが人っ子一人いない白い砂浜で、南島の日を受けて
「ほう、ほう。いいねえ、いいねえ」
と感嘆していたから、樹木さんもやっぱり自分の中に、よくわからない部分を持っている人なのだ。
わたしは、この、人間の、なんだかよくわからないという部分がとても好きだ。
ふつうはそれを支離滅裂だとか、辻褄《つじつま》が合わないとか、もっと現実的になって、だからあいつは信用できないなどというのだが、ほんとうにそうだろうか。
よくわからないということと、あいまいさとは少し違うような気がする。
以前にも書いたことがあるが、どう生きてよいかわからない、と悩む人が若い人に多い。
それも一つの誠実さかしれないが、自分の中にある、なんだかよくわからない部分を、しっかり面白がることがあってもいいんじゃないか。
へえー、ハイタニさんがそんなことをいうのかと思われそうだが、わたしも、なんだかよくわからない文章も書いてみたいのである。きょうは、やっとそれを果たした。