わたしは、においと音にかなり神経質な反応をする体質のようだ。
香水がダメで、香水の九十何パーセントかは悪臭であるという学説に、我が意を得たりする。食べものの好き嫌いはないつもりだが、においの強いものは敬遠しがちである。
音にも弱い。騒音がひどく気になる質《たち》だ。パチンコ屋に二、三度入った経験があるが十五分ももたなかった。頭痛がしてしまう。
デパートのような低い雑音が充満している空間も、すぐ疲れる。機械類の音もダメ。ホテル嫌いなのは、たぶん冷蔵庫の音が神経を苛立《いらだ》たせるからだろう。
われながら、厄介だなと思う。
同じ音でも自然の音は心安らぐので、どんな音も、わたしにとっては騒音のうちに入らない。
温泉宿に友人と泊まって、その友人が、せせらぎの音が気になって、よく眠れなかったというのでびっくりした。
もの書きは思考するのが仕事なので、この音の環境は、たいへん大事なのである。
このエッセイの発想も、おおかたは夜明けに思いつくことが多い。
わたしの生活は、沖縄(渡嘉敷島)と東京にまたがっているから、落差が激しく、精神の均衡を保つのに、かなりのエネルギーを使うのである。
と、まあ、そんなことを常日頃、思っているのだが、ある日、とんでもない世界にでくわして、たまげたというか、わたしのような神経のほそい人間は、やがてもう生きていく場所がないのではないかと恐怖を覚えてしまったのである。
京都駅に完成した、おそらく東洋一か世界一と思われる巨大なコンコースは、多くの人がすでに知っているだろう。視覚的にも猥雑《わいざつ》としか、わたしには思えないのだが、あのドームのような空間で、なんと「音楽」を演奏していたのである。
ライブなのか再生なのか、そこまで足を運ばなかったので、その点はよくわからないのだが、ともかく、めちゃめちゃなボリュームで、耳を聾《ろう》せんばかりといういい方が、なまぬるく感じるほどのすごさで、わたしは文字通り肝をつぶした。
いっさいの思考と、情感を拒絶する世界だった。
そして、もう一つ驚いたことは、その場所のあちこちにたくさんの若者が、なにをするともなくたむろし(なにかやっていた者もいたが、全体としてはそう見えた)、だらしなく足を床に投げ出し、物臭さを身体で表現している。
わたしは異次元の世界でも見るような思いだった。
駅というものは、それ自体が文化なのである。これから旅立っていく希望と、帰ってきた安堵《あんど》が、しみじみとした感情の空間をつくり出し、人々の心を和ませた貴重な場所だったのだ。それが……、嗚呼《ああ》。
つばめのとまるところは
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