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テーブルの雲01

时间: 2019-07-30    进入日语论坛
核心提示:十万円のマグロ 何事にも「センス・オブ・プロポーション」ということが大切である。すなわち「比率感覚」とでも言おうか。 た
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 十万円のマグロ
 
 
 何事にも「センス・オブ・プロポーション」ということが大切である。すなわち「比率感覚」とでも言おうか。
 たとえば、着るものについて考えてみる。
「着こなす」ということは、いったいどういうことだろうか。それはこういうことだと私は理解する。
 私が大学時代にお教えを頂いた、今は亡《な》き森|武之助《たけのすけ》先生は、もともと非常に裕福な家の御曹司《おんぞうし》で、若い頃《ころ》からお金に不自由したことは少しもない方だった。鎌倉の広壮な西洋館に悠々《ゆうゆう》と住み、いつも一見して英国製の生地《きじ》と分る仕立ての良いスーツを着ておられた。なにしろ資産家で、大学の給料などは先生にとってはほんの小遣い程度のものだったらしい。
 もう二十年以上も前になる。ある日、先生は新しい背広をあつらえたという話をされたことがある。
「昨日、英國屋で背広をこしらえたが、このごろはずいぶん高くなったね」
 と言われるので、私はおそるおそる値段を伺ってみたのだった。すると先生は、こともなげに答えた。
「一着三十五万円さ、だから二着だけにしておいたよ」
 その当時、私はまだ非常勤の講師で、給料などは高々月五万円くらいのものだったから、これはまったく住む世界が違う人なのだなぁ、という気がした。そのころの三田には西脇《にしわき》順三郎さんとか高橋誠一郎さんとか、有名な先生方がおられたが、どなたも長身|痩躯《そうく》、身に瀟洒《しようしや》な高級スーツをまとって、それがまたじつによく似合って格好良いのだった。森先生もこうした古き良き慶應《けいおう》ボーイの一人で、地味ながら打ち込みのしっかりした重厚な生地で念入りに仕立てられたスーツは、少しも気障《きざ》でなく、一分の隙《すき》もなく身についておられた。それは、いつも上等の洋服を身につけている人だけが手に出来る「着こなし」なのであった。
 一着三十五万円の背広(今なら七十万円にも当ろうか)を、躊躇《ちゆうちよ》なく二着買えるセンス、それはつまり七十万円という金額が別段の苦もなく払えるという収入の有る人にして初めて持てるのであろう。そうすると、月給二十万円の若いサラリーマンでは到底かなわぬ話であるということがわかる。いや、月賦《げつぷ》で買えば三十五万円のスーツだって買って買えないことはないだろう。しかし、その月給の二倍近い一張羅《いつちようら》のスーツを彼が自在に着こなせるとは思えない。必死の思いで一点豪華的にそういう高価な服を買って、おどおどして着ているなんて、哀《かな》しいじゃないか。
 で、私は考える。クレジットにしろ現金にしろ、いっぺんに三着買って、それでもあまり心の痛みを感じないで「まぁ、いいかな」と思える程度がその人の着こなせる服の範囲である、と。これは私の信念であると言ってよい。月給二十万円ならば、せいぜい五万円の既製服、それが正しい答えである。これをセンス・オブ・プロポーションというのである。一点豪華主義なんか、私は認めない。
 さて、その森先生のお宅に伺った時のことである。
「おい林、君は一サク十万円のマグロを喰《く》ったことがあるか」
 そういう金銀宝石のようなマグロなどもちろん食べたことはなかった。ありませんが、と答えると、先生は「じゃ是非食べていきたまえ」といって、ご馳走《ちそう》してくださった。なんでも、この三浦で上がる内地のマグロで、高過ぎて商売にならないからと言って、知人の船持ちが持ってきてくれるのだそうだ。
 しかし、結局のところ、私にはその一サク十万円のマグロがおいしいのかまずいのかよくは分らなかった。そういうのを、いつも食べているわけではないゆえ、ほかに比べようがなかったからである。当時月給五万円の私にとって、十万円のマグロなどはまったく不必要なもので、それは私のセンス・オブ・プロポーションからすれば、食べるに及ばない物だったわけである。そういうものをたまに食べても、正しい判断はできない。これはセンス・オブ・プロポーションにはずれた服をよく着こなすことができないのと同様、「食べこなす」ことができないのである。「あぁ、高いものをたべている、有難いものを口にしている」と思ったらそれはむしろ「食べ物に食べられている」ので、正当に味を評価することはできぬ道理である。
 では、服を一度に三着買うのと同じような意味で、どのくらいが食事(外食)についてセンス・オブ・プロポーションにかなうだろうか。私は、その値段のものを仮に一週間食べ続けるとして、それでも心の痛みを感じないで「いいやな、まぁ」と思える程度がその人にとっての「食べこなせる」範囲であろうと思っている。自分のことを告白するのは恥ずかしいけれど、私自身は、たとえば昼御飯に八千円もの金を払うのは「いやだなぁ」と思うであろう。そうして、|夕食ならば《ヽヽヽヽヽ》、五千円くらいのものを一週間毎日食べても、べつに何とも思うまい。しかし、それが一万円を超えるとなると「ちょっと気がとがめる」という感じがする。一食二万円もの物は食べる気がしない。エンゲル係数みたいな意味での金額の絶対値の割合ではないのだ。要は、こっちがそう思うか思わないか、なのである。仮に、収入を全部食べ物につぎこんでしまっても、まったく心の負担を感じないのなら、それはそれでセンス・オブ・プロポーションに叶《かな》っていると言ってもよい、それがその人の人生の全《すべ》てだという意味において。
 だから、私は「五千円の食通」である。
 なんというケチ臭い食通だ、と森先生はきっと空の上で笑っておられるだろう。その程度で偉そうに食べ物のことなど書くなと軽蔑《けいべつ》する「グルメ」の方もおられよう。しかし、私は一向に平気である。五万も十万もする一流料亭の料理などを、私は食べたこともないし、食べようとも思わない。それは、一サク十万円のマグロが私にとって「食べる必要のないもの」だったのと同じことである。そうして、そういう料亭の法外な食事を食べる人にしてからが、いったいどのくらい自分のお金で食べているだろうか。社用族や接待などは、初めからセンス・オブ・プロポーションの埒外《らちがい》にある。ただ、自分のお金で一食五万円のものを「まぁ、いいよな」と思えるようになったら、その時は(そんな時はきっと来ないだろうけれど!)おもむろに五万円の食通になるだけのことである。(いや、その後、実は一度だけ某高級料亭の十万円の飯をごちそうになったことがあるのだが、何の感動も覚えなかった。つまらぬものを食べた、と思ったに過ぎない)。
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