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ムッソリーニの処刑38

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:ロレート広場に逆さ吊り ムッソリーニがヴァレリオの銃弾を浴びる時、外套の胸をはだけて、「ここを狙え!」と左胸をたたいたと
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ロレート広場に逆さ吊り
 
 ムッソリーニがヴァレリオの銃弾を浴びる時、外套の胸をはだけて、「ここを狙え!」と左胸をたたいたという“逸話”を私は読んだことがある。またクラレッタがヴァレリオに「統帥(ドウチエ)を撃たないで!」と懇願し、ムッソリーニを抱きかかえて離さないため、まずクラレッタから先に処刑したという本に出会ったこともある。ヴァレリオの記述には、こうしたことはなく、同行のグイド、ピエトロの前記手記もヴァレリオの説明を裏付けている。もしヴァレリオらの記述が公表されなかったら、事実とは遠い「神話」「伝説」がまかり通っていたかも知れない。
ムッソリーニらの処刑後、引き続きファシスト首脳部の処刑がドンゴでくり広げられる。ヴァレリオらはムッソリーニとクラレッタの遺体を、デ・マリアの家で見張番だったリーノ、サンドリーノの二人に監視させ、ドンゴに直行した。そのドンゴの役場会議室には、ペドロの手でムッソリーニ以外のファシスト党幹部逮捕者が集められていた。
ペドロはヴァレリオから「ムッソリーニとペタッチを処刑してきた」と聞き、呆れはてた。ペドロはヴァレリオの手段や考え方には、なにか私憤や怨念が深くかかわっていると思わずにはいられなかった。ましてやクラレッタまで処刑してしまったことに、ペドロは深い憤りを覚えてならなかった。
ヴァレリオは「ここのファシストの捕虜達も直ちに処刑だ。連合軍の手に渡してはならない」と主張した。これに対しペドロは「明らかに戦争犯罪人と目される上級者と、ムッソリーニの側近だけに限ること」で折合いをつけた。一説によると、ムッソリーニらと共にドンゴで捕ったファシスト関係者は五十一人に上ったとされている。その中には、ミラノ脱出の際の車の運転手二十一人も含まれていた。ペドロはそれらと女性、子供を除いたリストを用意していた。
処刑される者は上級者十六人と決まり、直ちに役場からすぐのコモ湖に面する広場に集められた。五、六十人の男女の村民が、この処刑の様子を見に集まって来た。
ヴァレリオは「俺の仕事はもう終っているんだ。お前がやれ」と、ミラノから随行してきたリッカルドことアルフレード・モルディーニに銃殺隊の指揮を命じた。ムッソリーニの処刑だけを自分の唯一の目的とヴァレリオが考えていた一つの証拠がここにある。
銃殺隊はリッカルド以下ミラノからの十一人とドンゴのパルティザン四人の計十五人と決まり、ファシスト首脳陣はコモ湖に向って一列に並ばされた。ヴァレリオの命令で背後から処刑するためであった。ヴァレリオから、三分間以内の制限付きで、村の修道院の司祭アックルシオ神父により、処刑者全員の免罪の儀式が行われた。
いざ処刑となった時、数人のファシストが振り返り、大声で怒鳴った。
「マルチェッロ・ペタッチと一緒に血を流すのは御免だ! あいつは同志ではないっ」
ヴァレリオは、そのマルチェッロを列外に連れ出した。
するとこんどは、官房副長官のバラクがヴァレリオに大声で抗議した。
「俺は金勲章の叙勲者だ。前からこの胸を撃ってくれ。その権利がある!」
ヴァレリオは、無理矢理バラクを元通りの後向き姿勢にさせた。
二、三人のファシストが一緒に叫んだ。
「イタリア万歳!」
その時、リッカルドの「撃て!」の声と共に、十五人の一斉射撃音が響いた。
広場に硝煙がただよった。ところが二人ほど、倒れずにいるではないか。一人は立ったまま。もう一人はひざまずいただけで、立ち上がろうとさえしていた。
弾丸があたらず、逃げようとしたのは、人民文化相のメッツァソマであった。すぐさま、二度目の射撃が行われた。こんどは全員が倒れていた。それらの死体にもう一度、一斉射撃が浴びせられた。
この時の状況は写真に撮られており、硝煙の中にまだ倒れない二人のファシストが写っている。処刑隊の一人が呆然と立ちつくしているのを、われわれは今日、見ることができる。
この一部始終を目撃していたマルチェッロ・ペタッチは、広場の柵を一気に跳びまたいで逃げるや、コモの湖面に身を投げた。数秒間、潜行して泳ぎ、頭をもち上げたとたん、パルティザンに射殺された。このマルチェッロは姉のクラレッタがムッソリーニの愛人であることから、虎の威を借りた狐よろしく、数々の悪業を重ねたことで知られていた。
こうして処刑が完了したのは、午後五時四十五分頃である。処刑されたのは党書記長アレッサンドロ・パヴォリーニ、官房副長官フランチェスコ・バラク、それにパオロ・ゼルヴィーノ、フェルナンド・メッツァソマ、ルッジェーロ・ロマーノ、アウグスト・リヴェラーニの四閣僚、前ミラノ県知事ルイジ・ガッティ、ファシスト文化協会会長ゴッフレード・コッポラ、党幹部ニコラ・ボムバッチ、国営ステファニ通信社長エルネスト・ダクヮンノ、全国農業協連会長マリオ・ヌーディ、ムッソリーニの航空機操縦士ピエトロ・カリストリ空軍大佐、ファシスト検察官パオロ・ポルタ、ムッソリーニの連絡官ヴィート・カサリヌオヴォ、ファシスト・ジャーナリストのイドレーノ・ウティムペルゲ、そしてマルチェッロ・ペタッチの計十六人であった。
凄惨な一日であった。そしてファシズムにはっきりと弔鐘を鳴らした残酷な儀式は終った。コモ湖を囲む山々が夕焼けに染っていた。
 暗くなる頃、コモ湖から引き揚げられたマルチェッロの遺体も含め、全員の射殺体がトラックに積み込まれた。ヴァレリオらは途中ジュリーノ・ディ・メッツェグラでムッソリーニとクラレッタの遺体を、この十六人の遺体の上に重ね、一路ミラノを目指した。
ミラノに運ぶ目的は、これら遺体をロレート広場のガソリン・スタンドで曝(さら)しものにするためであった。ヴァレリオは二十八日早朝、北に向けてミラノを発つ直前、解放委員会情報部長チリッロから「ムッソリーニはロレート広場で処刑された」旨の連合軍宛への発信電文を見せられていた。この電報は第二部第七章で述べたように、二十七日夕、シエナのアメリカ軍情報部からムッソリーニの身柄について問合わせがあったのに対し、二十八日早朝にチリッロが、連合軍にその身柄引き渡し要求をあきらめさせるために打った芝居であった。
その電報を一瞥(いちべつ)した時から、ヴァレリオはムッソリーニ処刑後は、是非ともこのロレート広場に遺体を運ぶと、心に決めていた。ドンゴからミラノへの帰途のトラック上で、彼はひとり、八ヵ月前のあの熱い日のことを想い出していた。
 四四年八月九日のミラノ市アブルッツィ通り。その大通りをミラノ占領ドイツ軍トラックが通行中、愛国行動隊が襲撃、ドイツ兵五人を殺害し、多数の負傷者を出した。犯人は逃走した。このためドイツ軍司令官ケッセルリンクは、死者一人に対し十人のイタリア人を処刑することにした。つまり五十人もの大量処刑である。しかしミラノ大司教シューステルは、ケッセルリンクに嘆願し、十五人だけの処刑となった。
市内のサン・ヴィットーレ刑務所に収容中の反ナチ・ファシスト政治犯から犠牲者が選ばれ、翌十日早暁、事件現場にほど近いロレート広場で、ファシスト銃殺隊により処刑された。遺体は数日間にわたり、見せしめのため血みどろのシャツ姿で、無残に放置された。ミラノのパルティザンにはもちろん、市民の多くにとって忘れ得ぬ出来事となった。
 ヴァレリオは、この処刑された仲間達のためにも、ムッソリーニらをこのロレート広場のガソリン・スタンドに曝して、報復したかったのである。
市内に入ってから、ファシストに間違えられるという混乱もあって、二十九日午前三時頃、ようやくロレート広場に着いた。遺体十八体が広場の連合軍空爆で壊されたガソリン・スタンドに並べられた。
騒ぎを聞きつけて、早朝から市民がムッソリーニらファシスト首脳、クラレッタの死体を見ようとつめかけた。いつの間にか、周囲には数千数万の群衆が群がり、足の踏み場もないほどになった。四月最後の暖かい日曜日とあって、群衆はみるみるふくれ上がったのである。この群衆にとっては、血まみれのムッソリーニやファシスト首脳らの死体を見ることは、二十余年にわたるファシズム独裁の終結を確認する熱狂的な祭典となるはずであった。しかし、群衆は興奮はしたものの、熱狂はしなかった。むしろ歴史の激動という重みを感じ取っていたからかも知れない。
群衆が眺めたムッソリーニの遺体は、無残そのものであった。顔に一発ぶち込まれ、その弾丸が後頭部に抜けた穴が大きく裂けていた。すでに顔全体がはれぼったくふくれ、両眼は見開いたままだった。右足の革長靴はなくなっていた。隣に横たわるクラレッタは、美しい死に顔であった。茶色のスーツの下のブラウスがはだけ、青いスリップが垣間見えた。
一人のパルティザンが、ムッソリーニの体を動かし、頭をクラレッタの胸の上に載せてやった。死んだ後も一緒にしてやろうという計らいからであった。
突然、一人の中年の女性が躍り出て、ムッソリーニの遺体にピストルを五発、射ち込んだ。「息子五人がこの男のために死んだのだ!」と叫んでいた。死体を踏みつける人も何人か続いた。
広場には興奮が渦巻き、群衆はひと目だけでも見ようと押し合い、混乱も生じた。自動小銃をかかえたパルティザンや警察官、消防隊など三百人も繰り出したが、混乱はおさまらなかった。
その頃、ごく近くで元ファシスト党書記長アキーレ・スタラーチェが捕まり、ロレート広場に引き立てられて来た。群衆の見守る中で、パルティザン約十人によって、背後から射殺され、死体は同じガソリン・スタンドに運ばれた。
混乱や興奮を鎮めるため、パルティザン達は一計を案じ、遠くからでもファシスト首脳の遺体が見えるようにと、スタンドの鉄骨に逆さ吊りにした。まずムッソリーニ、次いでクラレッタ、その他バラク、パヴォリーニ、それにいましがた処刑されたスタラーチェの遺体も同様に逆さ吊りにされた。
クラレッタのスカートがまくれて顔の方まで下がり、下着まで見えたので、パルティザンの一人がスカートを脚にまきつけて縛った。
この広場の光景はミラノ一番乗りを競った連合軍の従軍記者達が、たまたまロレート広場で出くわして記録している。アメリカのニューヨーク・タイムズ、UP通信、ヘラルド・トリビューン、タイム、ボルティモア・サン。イギリスのタイムズ、ニューズ・クロニクルなどの特派員達であった。
しかし、その広場に実は日本人がいて、同じように逆さ吊りの現場を目撃していた。ベルリンの在ドイツ日本大使館勤務の石井彪である。石井は戦後、ローマの在イタリア日本大使館にも勤務するが、あの一九四五年四月二十九日のロレート広場の興奮を次のように語る。
「あの頃、独伊国境にある日本人避難所の食糧確保のため、ベルリンからミラノにお米の買付けに行っていた。米どころのミラノだから何とか調達できるだろうということだった。ところが到着後、ミラノが約二万の反ナチ・ファシストのパルティザンに包囲されてしまったということで、身動きできなくなった。ドイツ領に脱出できるかどうか、なんとか中央突破を試みるか——と悩んだ挙句、ドイツ領事館に行ってみようということになった。
いったんドイツ領事館に入った後、情報収集のため一人で外出したところ、ロレート広場は大変な人だかりだった。なんとムッソリーニらが処刑されているということだった。人波をかき分けてその現場に近付いてみると、ムッソリーニとクラレッタ・ペタッチの遺体がガソリン・スタンドの上の鉄骨に吊り下げられたところだった。
私は逆さ吊りのその二人だけの姿を夢中でカメラにおさめた。まわりでは大勢の人々がワイワイ騒いでいた。誰もが興奮していて、在住中国人の多いミラノでは敵国日本人とは気にもとめなかったし、気付くこともなかったのだろう。
そんな時、近くの別のガレージで二人のナチ・ドイツ将校が至近距離で射殺された。咄嗟(とつさ)に車庫のトラックの下にもぐり込んでしまった。本能的にそうしたのだった。
その後、約二週間、私はミラノのアメリカ情報部に監禁され、さらに中部イタリアのサルサマジォーレ・キャンプに移送されて一年後に日本に送還された」
 そのムッソリーニ逮捕とそれに続く処刑が日本に伝えられたのは五月一日付以降の新聞によってであった。どのように伝えられていたか——。
毎日新聞には五月一日付で「ム統帥逮捕さる」の二段見出しでストックホルム特電二十九日発として、次のように報道されている(原文のまま)。
「ミラノ放送によればムッソリーニ統帥は党書記長バラック、内相ツェビノ、国民文化相メッサソーマ、社会事業相ロマノ、交通相リヴェラニ等共和ファシスト政府首脳部と共にイタリア解放委員会の手により瑞伊国境コモ州で逮捕されたといわれる」
続いて翌二日付では、同じくストックホルム特電で「ム統帥を処刑、伊共和国首脳と共に」の同じく二段見出しで次のように伝えた。
「廿八日午後四時北イタリアのミラノから北に五十キロ離れたコモ湖のドンゴ村でムッソリーニ統帥は同志十七名と共に非業の死を遂げた。
統帥を逮捕したのは叛乱蜂起軍で彼等はドンゴ村外れの丸太小屋に休んでいた統帥を発見、直ちに死刑を宣告し処刑してしまったという。蜂起軍はム統帥以下の死体をミラノ市に運び翌廿九日市内広場に公開したと伝えられる。なおム統帥の女友達クラレッタ・ペタッチ夫人も処刑され同所に公開されている」
 ムッソリーニ夫人ラケーレは二十九日、ラジオの臨時ニュースで「ムッソリーニが処刑されました」とのアナウンスを突然、耳にして動顛した。
「えっ! 夫が殺された?」
覚悟はしてはいたものの、すぐには信じられなかった。三日前の二十六日夜、「愛するラケーレよ。余はいま、生涯の最終局面を迎えている。自分で書く本の最後のページになった」で始まる手紙を受け取って泣いたばかりだった。その夜、思いがけず電話がかかって来て三十分間も話した。それが最後となってしまった。
その時の夫の声がラケーレの耳には残っていた。夫は何度も言った。「手紙に書いたように、自分と子供達を救うのだ」と。ラケーレは涙をこらえながら、その声を胸にしまい、傍にいた三男のロマーノに受話器を手渡した。ロマーノは最後の父の声ということが分っていて、涙を流しながら話をしていた。
そのあと再び受話器を握ったラケーレに、ムッソリーニは言った。
「さあ、出発するんだ。ラケーレ。君と子供達の安全のために。俺は自分の運命を全(まつと)うしなくてはならんのだ。ラケーレ、頼むよ。くれぐれも元気でっ」
その声が最後となってしまった。その声を反芻しているうちに、まだラジオがニュースを繰り返し伝えているのに気が付いた。アナウンサーの言葉がラケーレの胸を貫いた。
「ムッソリーニはクラレッタ・ペタッチと共に処刑されたのです」
「えっ!」
思わず耳を疑った。「あの女が……。一緒だったっ!」
衝撃で体が震えた。
そのショックから立ち直るには数年を要した。未亡人はムッソリーニとの生涯の回想録を書き綴って心の傷を癒すことができた。それは一九四八年、ミラノのモンダドーリ社から出版された。『LA MIA VITA CON BENITO(ベニトとの私の人生)』のタイトルであった。その中で夫の死のニュースを聞いた時のことを次のように総括している。
「夫だけでなく、多くの同志が死を共にした。知っている人がたくさんいた。その人達はファシスト幹部ということで一緒に処刑された。最後まで生命を共にして下さったことに感謝したい。
そしてあの女も——。最後までドゥチェに付きまとい、スキャンダルを増し続けたあの女は、自分勝手な犠牲でその罪を償ったのだ」
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