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ムッソリーニの処刑02

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:パルティザンの誕生 一九四三年九月八日夕刻、国王ヴィットリオ・エマヌエレ三世が王宮に招集した緊急御前会議は、重苦しい空気
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パルティザンの誕生
 
 一九四三年九月八日夕刻、国王ヴィットリオ・エマヌエレ三世が王宮に招集した緊急御前会議は、重苦しい空気に包まれていた。イタリアの命運を決する瞬間を迎えていたからである。参集したのは首相バドリオ、外相グァリーリア、宮内相アックヮローネ、参謀総長アンブロージォほか陸海空各参謀長ら政府・軍首脳ら十数名であった。
イタリアはすでに前月中旬来、参謀本部のカステッラーノ准将が政府密命を帯びて連合軍最高司令部首脳と接触、九月三日の段階で休戦協定に調印を終えていた。休戦発表は連合軍が大挙イタリアに上陸する日に、連合軍最高司令官アイゼンハワーとイタリア側バドリオ双方がほぼ同時に行うことで合意がなされていた。シチリアの連合軍司令部にいるカステッラーノからは、連合軍上陸開始のXデーは「十二日前後」との予告が前もって入っていた。イタリア側はそれを前提に対応を準備していた。
ところが八日午後、アイゼンハワーから突然、「わが方は本八日、休戦を発表する。連合軍上陸は差し迫っている。貴国側も休戦を公表されたし」と連絡して来たのである。イタリア側は政府、軍首脳とも驚愕した。そのために国王は緊急御前会議を招集したのであった。
イギリスのロイター通信はその日午後四時に「イタリア休戦!」の至急報を流した。このニュースは瞬時に世界を駆け巡った。ドイツ側からの問い合わせにイタリア側は「まったくのデマだ」と応対しながら混乱の極にあった。
御前会議では、「いま休戦を発表したらドイツがどう出るか分らない。休戦発表を待ってもらうしかない」「連合軍が上陸して、ドイツ軍と戦闘状態に入ってから休戦を発表し、わが軍が連合軍と共にドイツ軍と戦闘状態に入るのが最善です」などの意見が出た。
バドリオは「この段階では二つしかない。一つはカステッラーノが陛下の許可なく協定に調印したとして、陛下が私を解任して協定そのものを否認する。もう一つはアイゼンハワーの意見に従う」と述べた。これに対しても賛否両論が列席者から出てまとまらなかった。
七時頃になって、「アルジェ放送がたったいま、アイクの休戦を発表しました」との情報が会議の席にもたらされた。皆、顔面蒼白となった。その直後、アイクからたたみかけるような次の電報が入ってきた。
「イタリアが休戦公表の約束を守らなければ、これまでの経緯をすべて世界に公表する」
これはイタリアに対する「止めの一撃」であった。
万事休す!
国王は低い口調で言うと立ち上がった。
「やることは決った!」
バドリオが休戦発表を命じられた。放送局に向う前、次の電報をヒットラーに発信した。
「ファシスト政権崩壊後、わが政府は祖国防衛のため戦争を継続すると宣明して来たが、連合軍の猛攻の前に国土の一部は占拠され、また国土の多くを破壊されている。しかも連合軍への抵抗能力もなくなった。かかる情況でイタリアは全面的破壊を避けるため、連合軍からの休戦要求に応ぜざるを得ない。バドリオ」
 王宮からテヴェレ川を渡って、ローマ放送局に着いた時は、夜七時半を回っていた。ラジオは「森の小径」という流行のカンツォーネを流していた。アナウンサーが放送を中断し、「ただいまから、バドリオ首相の重要発表があります」と前置きしたあと、バドリオの声が続いた。全文は次のように短い。
「イタリア政府は、圧倒的な敵兵力に対する劣勢の戦いを続けることが不可能であることを確認し、今後、国の重大な災害をこれ以上招かざるため、連合軍最高司令官アイゼンハワー元帥に休戦を申し入れた。この要請は受諾された。したがって連合軍に対する敵対行為は、あらゆる場所において、イタリア軍側からは中止される。それ以外からのいかなる攻撃も、反撃されることになろう」
 一語一語、噛みしめるように草稿を読んだ。三分かかった。終ったのは午後七時四十五分であった。マイクは国内向けと海外放送用の二つあった。連合軍もドイツ軍も聞いた。最後の「それ以外からの……」の部分は、ドイツ軍が攻撃して来たらイタリア軍は反撃するとの意味であった。
この休戦発表を耳にしたイタリア全土では、誰もが「戦争は終った!」と狂喜した。バドリオ声明は十五分おきに繰り返し放送された。あちこちで「イタリア万歳!」「国王万歳!」と声があがり、街頭に出て抱き合う姿も見られた。ファシストの中には襟の党員章をもぎ取り、窓の外に放り投げる者もいた。
だがこの放送を聞いて「これは大変なことになるぞ! ドイツ軍と内戦が始まるかも?」と危惧の念を抱いた人は全土に少くなかった。四十五日前の七月二十五日夜、ムッソリーニ解任のニュースの時は、全国いたるところでお祭り騒ぎとなったが、休戦発表のこの夜は時間とともに静かになった。多くの人々がドイツ軍の出方を心配して、家に籠ったからである。
事実、その頃ヒットラーは怒り狂ったように、八個師団の新たなイタリア派兵を命じていた。在イタリア・ドイツ派遣軍司令官ケッセルリンクにはイタリア占領を命じた。だがケッセルリンクはサレルノ方面に上陸する連合軍への迎撃布陣に追われていた。
その夜、国内情勢は一挙に激動する。
まず国王一家と首相バドリオら政府・軍首脳は、ドイツ軍に逮捕されぬうちにと、夜陰に乗じてローマからアドリア海のオルトーナに向い、そこから海軍のフリゲート艦で南のブリンディシに脱出する。「軍と国民を見捨てて」と後に非難されることになるが、これはあくまでもイタリア正統政府温存という非常手段でもあった。
内外各地のイタリア軍は、バドリオの放送で突然の休戦を知ったのである。兵士達は銃を捨てて思い思いに郷里に向った。指揮官はそれをどうすることも出来ず、ただ見守るだけであった。政府も軍隊も、いや国そのものが解体した瞬間であった。まさに「イタリア敗れたり!」であった。
 その夜、各地で一群の人々が希望に燃えて、忙しくしかし静かに動き始めていた。
ローマの住宅街アッダ通り中央のアパートに社会党の元首相イヴァノエ・ボノミはじめ、行動党、共産党、プロレタリア統一社会党、キリスト教民主党などの地下政党の政治家達が続々と集った。四十五日前のムッソリーニ失脚とともに公然と姿を現わして、政党再建の動きを進めていたが、休戦発表によって何よりもまずファシズム時代の政治空白を埋め、イタリア再建を計らねば……との思いからであった。
翌九日朝まで討議は続けられた。再建のためには、目の前にいるドイツ軍排除が急務であり、武装闘争が必要との観点から「国民解放委員会」結成で一致した。議長にはボノミが選出された。そのアッダ通りからほど近いポルタ・ピアにある武器博物館の内部では、ローマ防衛機甲軍司令官カルボーニから数人の政治家が武器弾薬類を手渡された。受領責任者はのちに大統領となるサンドロ・ペルティーニ(社会党)で、同じく共産党書記長になるルイジ・ロンゴも同行していた。これから先、多くの困難が予想される武装政治闘争開始を告げる記念すべき夜であった。
一方、北部山岳地帯では休戦放送を聴いたクネオの弁護士出身の指導者タンクレディ・ガリンベルティは、後にナチ・ファシストに銃殺されることになるが、同志や解体した部隊の一部を率いて独自の戦闘隊を組織した。ドイツ軍、ファシスト軍と戦うためであった。ガリンベルティのこの戦闘隊はパルティザンの「正義と自由」旅団の先駆けとなったものである。
現代イタリア切ってのジャーナリストの一人ジォルジォ・ボッカも、当時二十三歳の青年将校であった。第二アルプス連隊に所属していたが、休戦の夜、他の将校や兵士と話し合い、パルティザン部隊を編成した。
ローマの東北アペニン山脈中にも、同じようなパルティザン部隊がいくつも編成された。その指揮官の一人はかつて東部戦線でドイツ軍と共に作戦に従事したが、ロシア平原を退却中、村落を焼打ちしたり農民を射殺したりして金品を奪うドイツ軍の残虐行為を幾度も目撃していた。
「村民を守ろうじゃないか。ドイツ軍はイタリアを撤退する時、きっと同じようなことをやる人種だ」
このように話して、多数の同志を集めたのである。
アルプスやアペニンの山中には、武器弾薬、食糧ともまだかなり確保されていた。パルティザンの拠点はこの休戦の夜以降、各地に次々と誕生した。中部イタリアではローマ周辺はもちろんフィレンツェ、ラークィラ、アンコーナ、テーラモ、アレッツォ、ランチャーノ、リヴォルノ、ピオンビーノ。北部では西からクネオ、トリノ、ジェノヴァ、ミラノ、ボローニャ、レッジォ・エミーリア、モデナ、ラヴェンナ、ヴェネツィア、ウディネ。南部ではナポリ、サレルノ、バーリなどであった。パルティザンはあらゆる階層の人達で構成されていた。しかし最初は一拠点当り四、五十人でしかなかった。ドイツ軍が弾圧を強化するにつれて、各グループのメンバーもふくれ上がって行くことになる。
また、ローマの国民解放委員会からの連絡で、やがてミラノにも北イタリア国民解放委員会が結成される。
最初はバラバラの組織であったが、漸次、この国民解放委員会と各地のパルティザンが連携を強化して組織化され、機能的に動くようになるのだが、それにはまだ三、四ヵ月を必要とする。
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