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ムッソリーニの処刑04

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:ドイツ軍との戦闘始まる イタリア休戦から四日目の九月十二日、世界を驚嘆させるニュースが走った。ムッソリーニがドイツに救出
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ドイツ軍との戦闘始まる
 
 イタリア休戦から四日目の九月十二日、世界を驚嘆させるニュースが走った。ムッソリーニがドイツに救出されたのである。
この日午後、中部イタリアの最高峰グラン・サッソ(標高二九一四メートル)にオットー・スコルツェニー指揮のナチ親衛隊が十一機のグライダーで着陸、七月二十五日来各地を転々と幽閉されていたムッソリーニを見事に救出、ドイツに運ぶという離れ業を演じた(詳細は拙著『ムッソリーニを逮捕せよ』を参照されたい)。これには枢軸国、連合国を問わずひとしく感嘆の声を惜しまなかった。
ミュンヘンで待ち受けていたヒットラーにムッソリーニは「ヒューラー(総統)よ、本当に有難う。すべてが夢のようだ!」と感謝の言葉を述べた。この瞬間から統帥はヒットラーの完全な傀儡になり下がった。ムッソリーニはこのあとヒットラーの要請で、北イタリアのガルダ湖畔に「イタリア社会共和国」政府を樹立する。これによりイタリアには、南のバドリオ政権(連合軍側)と北のムッソリーニ政権(ドイツ側)の二つが併立することになった。イタリアは文字通り二分されたのである。
 その頃イタリア各地では、市民とドイツ軍の小競り合いが頻発していた。イタリア占領を開始したドイツ軍への市民の抵抗が始まったからである。初の最大の戦闘がローマのカラカラ浴場跡西方のサン・パオロ門広場での白兵戦であった。
九月十日、ローマ西郊駐留のドイツ軍が大挙、ローマ市内進駐を図った。それを阻止しようと市民達が抵抗、ローマ防衛の残存部隊、国民解放委員会の面々がこれに加わった。九日にローマ防衛機甲軍司令官カルボーニから武器弾薬類を受領した責任者のペルティーニもその一人であった。戦闘は丸二日間、サン・パオロ門広場を中心に白兵戦の形で続いた。しかし装備と戦闘能力のすぐれたドイツ軍の前に武器弾薬の補給を絶たれた市民らは敗れた。ドイツ軍は死者約四百人を出し、市民側もほぼ同数が戦死した。
こうして九月十二日以降、ローマはドイツ軍の軍靴の下に置かれることになったが、このサン・パオロ門の白兵戦はその後の各地における抵抗の狼煙(のろし)となった。現在この広場の一角には、当時の市民戦士達を賛える大理石の大きな記念碑がかかげられている。
ローマとほぼ同じ頃、他の大小の都市もドイツ軍に制圧された。ドイツ軍は当時、約十五個師団で約二十万の兵力を擁していた。そのドイツ軍に各地の青年はいわゆる「人間狩り」で強制徴用され、労働力としてドイツに送られた(後年の調査でその数は約六十万)。またドイツ兵は各地で市民への略奪、暴行を重ねたのである。
一方、十日未明、ローマ南方サレルノに約五個師団の連合軍が上陸、ドイツ軍はサレルノ防衛に釘付け状態にされていた。
 そのサレルノの北五十六キロのナポリでも、市民の占領ドイツ軍への大規模な抵抗戦が起こり、多数の死傷者を出しながらもついにドイツ軍を投降させるという壮烈かつパルティザンにとっては痛快な戦闘が始まった。九月二十八日から十月一日まで続いたこのゲリラ戦は、「ナポリの四日間」の名でイタリア現代史の一ページを飾るエピソードとなっている。
港湾都市ナポリはそれまで三年間、連合軍の百回以上の空爆にさらされ、死者二万人以上を出していた。二十五万人の罹災した人々はキァイア通りなどのトンネルやバラックに寝泊りを余儀なくされていた。街は文字通り瓦礫と化していたのである。
九月十二日、このナポリを占領したドイツ軍司令官ショル大佐は、「ナポリ市を戒厳令下に置く。夜八時から朝六時までは外出禁止。われわれに危害を加える者には、一対百で報復する」との布告を発した。同時に空爆を免れた数少い海岸通りの著名ホテルなどを司令部や宿舎として接収した。
漁民の多いこの街で、朝六時まで外出禁止では商売もできない。そのうえ「ここは世界一美しい」と自負心を持つナポリっ子の多くは「昔からここを学術研究のために訪れていたドイツ人が、こともあろうに占領するなど許せない!」と一斉に反感をつのらせた。
そうした緊張感の中で、最初の衝突は占領その日のうちに起った。オペラの殿堂サン・カルロ劇場近くを、小型機関銃で警備中の警官にドイツ兵がその機銃を引き渡せと要求した。警官が拒否すると撃ち合いとなった。ドイツ兵が応援に駆けつけた。それを目がけて住民が建物の上から空瓶や椅子などを投げ下した。ドイツ兵は逃走した。同じ日、日曜日とあって閉店中のナポリ大学前の商店街にドイツ兵が略奪に現われた。商店街は抵抗した。一部のドイツ兵がナポリ大学の建物に放火した。抵抗した市民が逃げ込んだとの理由からである。この衝突の際、一人の少年が手投弾を投げようとしたため、捕って処刑された。これも同じ日、旧跡の卵城を警戒中のイタリア兵八人がドイツ軍に処刑された。
翌十三日には電話局を破壊しようとするドイツ軍を阻止した警官十四人が、自らの墓穴を掘らされた後、一斉処刑された。こうした事件は枚挙にいとまなく、日ごとに市民のドイツ兵への対決の空気が高まっていった。
そうした折、ドイツ軍司令部はさらに苛酷な布告を発した。二十三日のことである。「海岸線から三百メートル以内は軍事地帯」だとして、住民に二十四時間以内の退去を命じ、さらに「一九一〇年から二五年までの出生男子は、労務のためドイツに徴用」としたのである。前者は約二十五万人、後者は約三万人が該当したが、無視する者が続出した。後者は期限までに百五十人ほどしか集まらなかった。
このため司令官ショルは二十七日から一斉に「人間狩り」を開始した。病院、教会に隠れた該当者を容赦なく連行した。引き立てられて行く若者を見て、ナポリっ子の怒りは爆発、ドイツ軍への武装闘争に発展したのである。二十八日早朝、市民達は市内随所にバリケードを築いた。「人間狩り」のドイツ軍の通行阻止のためである。武器を持つ市民がそこに立て籠った。旧式銃、火炎瓶、ピストル、手投弾などが武器であった。
ナポリ民謡「フニクリ・フニクラ」で名高いケーブルカーでも分るように、この街は海岸線から少し奥に入ると高台である。そうした坂道に築かれたバリケードは、大いに威力を発揮した。海岸通りから上がってくるドイツ隊は、いたるところで挟撃、狙撃にさらされ、前進を阻まれて死傷者を出した。イタリア旧海軍将校が指揮をとったバリケードも多かった。その一人、元中尉のルイジ・モンターレから聞いた話である。
「バリケードは主として、市民達が舗道の石畳をはがして築いた。これは弾丸除けにもなるし、武器にもなる。都市ゲリラとして石畳を利用したのは、この時のナポリが世界で初めてではなかろうか。この形式はその後の都市型闘争の原型となったのだ」
このほか、市電を横転させてバリケード代りにしたところもあった。そうした陣地戦が始まり、ドイツ兵が増強されると、屋根、バルコニーから火炎瓶を投下してドイツ隊を追い散らした。市街戦さながらであった。ヴォメロの丘では、若者達がドイツ軍装甲車を幾台も分捕って、イタリア国旗をはためかせてドイツ隊に突っ込んだ。国鉄鉄道員約五十人はドイツ軍鉄道隊を三日間包囲し続け、武装解除のうえ武器弾薬を押収した。
二十九日から三十日にかけ、サレルノ上陸の連合軍に敗れ、ナポリに撤退するドイツ軍が増えて、戦闘は一層激化した。戦車、装甲車も加わって来た。国立古代博物館周辺に集結した戦車、装甲車群と市民の対決は、激戦のヤマであった。小柄な少年達が近くに忍び寄っては、銃眼から車内に火炎瓶を放り込んで次々と擱座させた。肉薄戦であった。
ドイツ軍は人質報復という手を使い始めた。これら人質はヴォメロ競技場に集められた。機銃掃射で処刑するというのである。これを知った元陸軍大尉ヴィンチェンツォ・スティモロは大勢の武装市民を率いて競技場に突入し、ドイツ兵を取り押えて人質救出に成功する。この元大尉は後に中部イタリアでパルティザンに身を投じ、戦死する。
以上のような数々の武勇伝を残し、三十日深夜には大勢として市民側の勝利がほぼ確定した。夜陰に乗じて市民軍を率いる元イタリア軍人がドイツ軍司令部に接近、司令官ショルに降伏を促した。数時間後、ショルは白旗を手にして投降し、部下に戦闘停止を命じた。翌十月一日、少数の残存ドイツ兵との戦闘が続いている午前十一時頃、サレルノから北上してきたアメリカ軍先遣隊がナポリ市内に入って来た。
たまたま、市内のあちこちで戦死した市民の葬儀が行われているのを見て、先遣隊隊長クラーギー大佐は「ナポリの四日間」の出来事を知って驚いた。大佐らはそれら戦死者の葬儀に列席し、丁重に棺に敬礼したあと、本隊に電話した。
「ナポリのドイツ軍はすでに市民に降伏せり。戦闘は終了した」
 後日、ナポリ市当局発表によると、この四日間のイタリア側戦死者は百六十八人。うち軍人は二十八人。ほかに重軽傷者は百六十二人であった。特筆すべきは十代の若者が身を挺してドイツ軍に立ち向ったことであった。戦死者の半分が十代、二十代の青年達だったが、そのうち次の勲功者五人に戦後のイタリア政府は金勲章を贈った。
ジェンナロ・カプオッツォ(十二歳)、フィリッポ・イルミナート(十三歳)、パスクワーレ・フォルミザーノ(十七歳)、マリオ・メニキーニ(十八歳)、ジォヴァンニ・イルストリ(十三歳)である。叙勲の言葉に言う。
「君らは銃弾の中をかいくぐり、生命の危険をかえりみずに敵に接近し、手にした手投弾を、じっと敵陣を見据えつつ、適確に銃眼の中に放り込んだ。その勇気と果敢さにわれわれは心からの敬意を捧げるものである」
ナポリ地方を含め、南部には子供とはいえ家族の一員として大人を手伝う習慣が根強い。一人前の気持で戦ったのであろう。棺におさめられた彼らの写真を見たことがあるが、微笑みながら眠っている表情がかえって痛ましくてならなかった。
 ローマのサン・パオロ門の白兵戦、このナポリの四日間のいずれも突発的、偶発性のもので事前に計画された抵抗運動ではなかった。突如ドイツ軍の占領下に置かれたまったく初期の闘争形態であった。だが自然発生的に市民が率先して抵抗に参加した点に、イタリア市民達の「反ナチ」の意志を見ることができる。
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