「殺(や)ったのはロンゴだ!」
ウィンストン・チャーチルがムッソリーニらの処刑に関心を抱き、調査させたことは、イタリアのジャーナリスト、フランコ・バンディーニにより既述の通り発表されたが、そのバンディーニ自身ムッソリーニ処刑研究の第一人者の一人である。その彼は七三年二月、約二十年間にわたる独自の究明成果として「ムッソリーニは二度処刑された」という巻頭論文を歴史専門月刊誌「ストーリア・イルストラータ」二月号に掲載し、内外に大きな反響と波紋を呼んだ(注1)。
これはバンディーニが長年、ムッソリーニ処刑と関係ある人物と面接、また関係資料を精査したうえでの結論だとし、実際に処刑したのはあの四五年当時、イタロ、ガロ、ジージの三つのパルティザン名を持ったルイジ・ロンゴであったとするセンセーショナルな内容である。この論文の発表当時、ロンゴはイタリア共産党議長の地位にあった。その前年まで六四年からパルミーロ・トリアッティの後を継ぎ共産党書記長であった。そのロンゴを「真の下手人」ときめつけたのだから、ヨーロッパ中に関心を呼び起したのも当然であった。
これまでも述べてきたように戦争中、ロンゴは国民解放委員会首脳の一人で、パルティザンの重要幹部であった。それだけにこの論文は単に「ヴァレリオ説」を覆すだけでなく、イタリア共産党にも衝撃を与えずにはおかなかった。その意味からもこのバンディーニ論文は他の諸国にも翻訳、紹介された。「これこそがムッソリーニ処刑の真実である」とするその論旨のあらましを原文から一部要約してみる。
これはバンディーニが長年、ムッソリーニ処刑と関係ある人物と面接、また関係資料を精査したうえでの結論だとし、実際に処刑したのはあの四五年当時、イタロ、ガロ、ジージの三つのパルティザン名を持ったルイジ・ロンゴであったとするセンセーショナルな内容である。この論文の発表当時、ロンゴはイタリア共産党議長の地位にあった。その前年まで六四年からパルミーロ・トリアッティの後を継ぎ共産党書記長であった。そのロンゴを「真の下手人」ときめつけたのだから、ヨーロッパ中に関心を呼び起したのも当然であった。
これまでも述べてきたように戦争中、ロンゴは国民解放委員会首脳の一人で、パルティザンの重要幹部であった。それだけにこの論文は単に「ヴァレリオ説」を覆すだけでなく、イタリア共産党にも衝撃を与えずにはおかなかった。その意味からもこのバンディーニ論文は他の諸国にも翻訳、紹介された。「これこそがムッソリーニ処刑の真実である」とするその論旨のあらましを原文から一部要約してみる。
ムッソリーニとクラレッタはヴァレリオによって四五年四月二十八日午後四時過ぎに処刑されたことにされていたが、実際には別の人物によってそれより数時間前にすでに処刑されていた。ヴァレリオは単にその遺体に一発ずつ形式上、弾丸を射ち込んだに過ぎない。
物語はその前日の四月二十七日にさかのぼる。イタリアから敗走するドイツ軍の中にまぎれて逃亡しようとしたムッソリーニは、ドンゴ村でイタリアのパルティザンによって発見され、遂に捕った。ムッソリーニを追ってきた彼の愛人クラレッタ・ペタッチも捕まり、二人は近くのボンツァニーゴの農家に監禁された。ムッソリーニ逮捕の報はその晩、ミラノのパルティザンの本部である解放委員会に伝えられた。
解放委員会はすでにその二日前、ムッソリーニが捕ったら処刑という決定を行っており、逮捕された現場で死刑の判決を与えて処刑することにしていた。
パルティザンのヴァレリオ大佐こと共産党員のヴァルテル・アウディシオが処刑の権限を委任されており、大佐はムッソリーニ逮捕の報を受けるや、早速、現場に急行した。
ところがコモ地区のパルティザン達は大物逮捕に浮かれており、そのうえミラノからやってきたというヴァレリオ大佐がどこの誰かも分らず、逆にファシストではないかとさえ疑って、ムッソリーニをヴァレリオ大佐の手にゆだねることをためらった。
業をにやしたヴァレリオ、それに同行してきた部下のグイドことアルド・ランプレディとリッカルドことアルフレード・モルディーニらは、ドンゴの上級組織であるコモの共産党支部に赴いて引渡しを交渉しようとした。そのコモの党支部に、たまたま解放委員会の首脳の一人ルイジ・ロンゴが来ていたのだ。
ロンゴは「ムッソリーニ逮捕」をグイドらから直接聞いて、「自分が処刑しよう」と決意、共にムッソリーニの捕えられているボンツァニーゴに向った。
ムッソリーニとクラレッタは、農家からロンゴらによって連れ出され、自動車で数百メートル離れた三差路にある別荘の前でおろされた。農家にいたドンゴのパルティザンであるネーリ、ジャンナ、ピエトロことモレッティらもあとから駆けつけて、遠巻きに様子を見ていた。つづいて二人の若い見張役サンドリーノ、リーノもやってきた。
ロンゴとモルディーニの二人は、ムッソリーニらを塀の前に立たせると、二人で一斉に銃撃した。あたりは血の海となった。
ネーリとモレッティは思わず後ずさりした。ムッソリーニとクラレッタの体は塀にもたれかかるように、二つにへし折れた形でくずれ倒れた。
ムッソリーニは七発で絶命した。クラレッタもほぼ同数の銃弾を浴びた。銃はチェコスロヴァキア製であった。
サンドリーノ、リーノ、ピエトロそれにリッカルドの四人で、二人の遺体を車に運び込んだが、これが容易な作業ではなく、ムッソリーニとクラレッタの靴が片方ずつ脱げてしまった。靴はそのままになった。
車は近くのシンパの庭先にいったん預け、リーノとサンドリーノがこれを見張ることにし、ロンゴらはドンゴに戻った。そのロンゴは不用意にもほんの少時間、役場前のドンゴ広場を歩き回った。たまたま八ミリ映画カメラを回していたルーカ・スケニーニがその姿をカメラにおさめてしまったのである。それを遠くから気付いたヴァレリオは、すぐさまこのフィルムを没収してしまった。
ロンゴはヴァレリオに、ムッソリーニとクラレッタを自分が処刑したことを知らせ、あとはまかせると告げて、直ちにミラノに向けて出発した。その時に二人の間でどのような話し合いや取引きがあったかは不明である。ただクラレッタ処刑は誰の目にも「非合法」であり、共産党首脳のロンゴが処刑人だと表沙汰にはできないことだけは確かであった。
そのあとヴァレリオはピエトロ、ネーリ、ジャンナを伴い、ボンツァニーゴの農家に行き、ネーリがムッソリーニに、ジャンナがクラレッタにそれぞれ変装して、さらにベルモンテ荘まで赴いた。農家の人々の目をあざむくためであった。
ベルモンテ荘前では、あらためて本物のムッソリーニとクラレッタの遺体を塀にもたせかけ、ヴァレリオがまず空に向って二度、単にしるしばかり連射し、そのあと“とどめの一発”を二人にぶち込んだ。ヴァレリオはその役目柄、自分がなんとしてでも処刑を実行しなければならなかったのだ。
こうしてムッソリーニ、クラレッタは二度処刑されたことになる。二人の遺体はこのあとドンゴ村役場前で銃殺されたほかのファシスト首脳らの遺体とともにミラノのロレート広場に運ばれたのである。
この二つの処刑に関った人物のうち、ネーリ、ジャンナ、リーノの三人のパルティザンはいずれも間もなく不可解な死を遂げている。リッカルドは六八年に病死した。現在(注・一九七三年二月)も健在なのは、ロンゴ、サンドリーノ、ヴァレリオ、それにピエトロぐらいなものである。グイドも数年前にモスクワで病気のため客死している。
物語はその前日の四月二十七日にさかのぼる。イタリアから敗走するドイツ軍の中にまぎれて逃亡しようとしたムッソリーニは、ドンゴ村でイタリアのパルティザンによって発見され、遂に捕った。ムッソリーニを追ってきた彼の愛人クラレッタ・ペタッチも捕まり、二人は近くのボンツァニーゴの農家に監禁された。ムッソリーニ逮捕の報はその晩、ミラノのパルティザンの本部である解放委員会に伝えられた。
解放委員会はすでにその二日前、ムッソリーニが捕ったら処刑という決定を行っており、逮捕された現場で死刑の判決を与えて処刑することにしていた。
パルティザンのヴァレリオ大佐こと共産党員のヴァルテル・アウディシオが処刑の権限を委任されており、大佐はムッソリーニ逮捕の報を受けるや、早速、現場に急行した。
ところがコモ地区のパルティザン達は大物逮捕に浮かれており、そのうえミラノからやってきたというヴァレリオ大佐がどこの誰かも分らず、逆にファシストではないかとさえ疑って、ムッソリーニをヴァレリオ大佐の手にゆだねることをためらった。
業をにやしたヴァレリオ、それに同行してきた部下のグイドことアルド・ランプレディとリッカルドことアルフレード・モルディーニらは、ドンゴの上級組織であるコモの共産党支部に赴いて引渡しを交渉しようとした。そのコモの党支部に、たまたま解放委員会の首脳の一人ルイジ・ロンゴが来ていたのだ。
ロンゴは「ムッソリーニ逮捕」をグイドらから直接聞いて、「自分が処刑しよう」と決意、共にムッソリーニの捕えられているボンツァニーゴに向った。
ムッソリーニとクラレッタは、農家からロンゴらによって連れ出され、自動車で数百メートル離れた三差路にある別荘の前でおろされた。農家にいたドンゴのパルティザンであるネーリ、ジャンナ、ピエトロことモレッティらもあとから駆けつけて、遠巻きに様子を見ていた。つづいて二人の若い見張役サンドリーノ、リーノもやってきた。
ロンゴとモルディーニの二人は、ムッソリーニらを塀の前に立たせると、二人で一斉に銃撃した。あたりは血の海となった。
ネーリとモレッティは思わず後ずさりした。ムッソリーニとクラレッタの体は塀にもたれかかるように、二つにへし折れた形でくずれ倒れた。
ムッソリーニは七発で絶命した。クラレッタもほぼ同数の銃弾を浴びた。銃はチェコスロヴァキア製であった。
サンドリーノ、リーノ、ピエトロそれにリッカルドの四人で、二人の遺体を車に運び込んだが、これが容易な作業ではなく、ムッソリーニとクラレッタの靴が片方ずつ脱げてしまった。靴はそのままになった。
車は近くのシンパの庭先にいったん預け、リーノとサンドリーノがこれを見張ることにし、ロンゴらはドンゴに戻った。そのロンゴは不用意にもほんの少時間、役場前のドンゴ広場を歩き回った。たまたま八ミリ映画カメラを回していたルーカ・スケニーニがその姿をカメラにおさめてしまったのである。それを遠くから気付いたヴァレリオは、すぐさまこのフィルムを没収してしまった。
ロンゴはヴァレリオに、ムッソリーニとクラレッタを自分が処刑したことを知らせ、あとはまかせると告げて、直ちにミラノに向けて出発した。その時に二人の間でどのような話し合いや取引きがあったかは不明である。ただクラレッタ処刑は誰の目にも「非合法」であり、共産党首脳のロンゴが処刑人だと表沙汰にはできないことだけは確かであった。
そのあとヴァレリオはピエトロ、ネーリ、ジャンナを伴い、ボンツァニーゴの農家に行き、ネーリがムッソリーニに、ジャンナがクラレッタにそれぞれ変装して、さらにベルモンテ荘まで赴いた。農家の人々の目をあざむくためであった。
ベルモンテ荘前では、あらためて本物のムッソリーニとクラレッタの遺体を塀にもたせかけ、ヴァレリオがまず空に向って二度、単にしるしばかり連射し、そのあと“とどめの一発”を二人にぶち込んだ。ヴァレリオはその役目柄、自分がなんとしてでも処刑を実行しなければならなかったのだ。
こうしてムッソリーニ、クラレッタは二度処刑されたことになる。二人の遺体はこのあとドンゴ村役場前で銃殺されたほかのファシスト首脳らの遺体とともにミラノのロレート広場に運ばれたのである。
この二つの処刑に関った人物のうち、ネーリ、ジャンナ、リーノの三人のパルティザンはいずれも間もなく不可解な死を遂げている。リッカルドは六八年に病死した。現在(注・一九七三年二月)も健在なのは、ロンゴ、サンドリーノ、ヴァレリオ、それにピエトロぐらいなものである。グイドも数年前にモスクワで病気のため客死している。
お断りしておくが、この記事のオリジナルでは、ルイジ・ロンゴの名を明示はしていない。単に「シニョールX」つまりX氏とだけ表記してある。しかし読む人が読めば明らかにイタリア共産党議長ルイジ・ロンゴと分るようになっていた。後に、バンディーニは「シニョールXはルイジ・ロンゴのことである」と明言している。このため、ここに大筋を述べるに当っては「X氏」をロンゴと置き換えておいた。
この記事が公表された七三年当時、イタリア共産党は非公式に「噴飯もの」と批評したにとどまり、公式には完全に黙殺し、沈黙を保ったままであった。しかし「ロンゴ説」疑惑はさらに増幅する。
この論文の中で特に注目されるのは、ドンゴ広場で八ミリ映画にロンゴが写されたこと、ネーリ、ジャンナの若い男女のパルティザンがムッソリーニ、クラレッタに変装させられたことなどである。これによって「ロンゴ説」は一挙に“真実性”を増した。八ミリ映画フィルムは没収されて確認のしようもないが、ネーリ、ジャンナの不可解な死はこの変装と関連付けることもできる。
さらに重要な点は、本論文では「ヴァレリオは処刑を委任されていた」と明言されていることである。もしその通りであれば、これまた研究に一石を投じるものとなる。
また、コモにロンゴが来ていたとすれば、ヴァレリオがコモからミラノのロンゴに電話したとのヴァレリオの告白も崩れることになるが、このミラノへの電話というのは、ロンゴ説を崩すためのカムフラージュだったかも知れないとの推理も生れる。
この記事が公表された七三年当時、イタリア共産党は非公式に「噴飯もの」と批評したにとどまり、公式には完全に黙殺し、沈黙を保ったままであった。しかし「ロンゴ説」疑惑はさらに増幅する。
この論文の中で特に注目されるのは、ドンゴ広場で八ミリ映画にロンゴが写されたこと、ネーリ、ジャンナの若い男女のパルティザンがムッソリーニ、クラレッタに変装させられたことなどである。これによって「ロンゴ説」は一挙に“真実性”を増した。八ミリ映画フィルムは没収されて確認のしようもないが、ネーリ、ジャンナの不可解な死はこの変装と関連付けることもできる。
さらに重要な点は、本論文では「ヴァレリオは処刑を委任されていた」と明言されていることである。もしその通りであれば、これまた研究に一石を投じるものとなる。
また、コモにロンゴが来ていたとすれば、ヴァレリオがコモからミラノのロンゴに電話したとのヴァレリオの告白も崩れることになるが、このミラノへの電話というのは、ロンゴ説を崩すためのカムフラージュだったかも知れないとの推理も生れる。