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ムッソリーニの処刑51

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:  エピローグ 北イタリア各地のパルティザンによる解放、ファシズムの巨頭ムッソリーニ処刑と、劇的な展開のうちにイタリアの
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  エピローグ
 北イタリア各地のパルティザンによる解放、ファシズムの巨頭ムッソリーニ処刑……と、劇的な展開のうちにイタリアの戦後は躍るように始まった。
ミラノのロレート広場で、ムッソリーニらファシスト党首脳の遺体をその目で見た大群衆が、「これでファシズムの時代は終った!」と確認し合っている時、アメリカ軍先遣隊が市内に入って来た。同じ二十九日にはヴェネツィアに、翌三十日にはトリノにも入城して来た。それぞれの都市で市民達は硝煙にまみれたパルティザンや連合軍兵士に花束を投げ、ブドウ酒を振舞って歓迎した。
在イタリア・ドイツ軍は二十九日、ナポリ北東のカセルタにある連合軍総司令部で正式に降伏文書に調印した。それに先立って、各地のドイツ軍はパルティザンに投降し、イタリア市民の罵声を浴びていた。約五年間にわたった戦争はこうして終った。うち一年八ヵ月は、国民を二分しての悲劇的内戦であった。
戦火に荒廃した国土と、ナチ・ファシズムをめぐる国民同士の相克による傷跡はあまりにも深く、大きかった。だがそうした中からイタリアは新生を目指して立ち上がったのである。その原動力となったのが国民解放委員会とパルティザン達であった。その面々は市民達と手をたずさえ、余勢を駆って政治、経済、文化、社会の各分野に進出していった。
一年後の四六年六月二日、イタリア新憲法を制定する制憲議会選挙と、イタリアの政体を決める国民投票が同時に行われた。初夏の眩(まばゆ)い太陽の下で、約二千三百万の有権者が全国三万余の投票場に自らの意志を表明した。
制憲議会選挙では、反ナチ・ファシズムに献身した多くのパルティザン達が、どの政党からも揃って当選した。キリスト教民主党のアルチーデ・デ・ガスペリ、二十歳代の若さで当選したジュリオ・アンドレオッティ、社会党のピエトロ・ネンニ、サンドロ・ペルティーニ、ジュゼッペ・サラガート、共産党パルミーロ・トリアッティ、ルイジ・ロンゴら錚々たる面々が、戦場ではなく国会の議場で一堂に会したのである。
政体決定の国民投票では、「共和制支持」一二七一万七九二三票、「王制支持」一〇七一万九二八四票で、イタリア国民は共和制を選んだ。王室一族は結果判明のその日のうちに、エジプトやポルトガルに亡命した。
一方、制憲議会は二十五日に招集され、社会党のジュゼッペ・サラガートが議長に選出され、二十八日には自由党のエンリコ・デ・ニコラを初代大統領に選んだ。この制憲議会は新憲法を起草、同時に新たな国旗、国歌も定め、四八年一月一日から、この新憲法は施行された。わが国の憲法学者宮沢俊義が「現代における西欧的民主主義の典型的なもの」と評する憲法である。
 二十世紀の廃墟の中から立ち上がったイタリアは、古代ローマ時代の廃墟を傍に見ながら不死鳥のように、新しい栄光と繁栄を目指して歩みを始める。その「新しいイタリア」建設にたずさわった人達を代表して、次の三人に当時の体験と心意気を語ってもらおう(注1)。
 まずジォヴァンニ・アニエッリ。彼はイタリア最大の企業「フィアット」の総帥である。通称ジャンニと呼ばれる彼は、四五年当時は二十四歳でフィアット自動車会社の副社長であった。大戦中はロシア戦線、北アフリカ戦線で闘い、四三年に帰国した後は、軍需物資生産の陣頭に立っていた。
「四五年の冬から春にかけて、北イタリア各市の大企業にとっては恐ろしい日々の連続だった。ナチ・ファシストから『君らはパルティザンを手助けし、軍需品生産をサボタージュしている』と厳しい圧力と脅迫を受け続けていたからだ。その一方で反ナチ・ファシストからは『ファシスト政権の意のままになっている』とつき上げられ、非難も浴びた。フィアットが時の政権に従属していたというのも事実だが、レジスタンス勢力のために蔭ながら貢献していたのもまぎれもない事実であった。
私は四〇年六月のイタリア参戦の数日前、ムッソリーニと話した。彼ははっきり大戦には中立を守る様子を示していた。ところが参戦してしまった。これは彼の大誤算であった。以来、私は彼を信用していなかった。四一年十二月に、こんどは日本がアメリカに宣戦すると、イタリアはアメリカにも宣戦した。これで戦争は絶対に敗北だと私は思った。私がフィレンツェで反ナチ・ファシストとして戦ったのもそのためだった。
だが戦争が終ってみると、このフィアット工場には赤旗が林立した。そうした状態から今日のイタリアの再建と繁栄をみることになったのだが、思えばこの再建への道はまったくイバラの道だったとしか言いようがない」
 作家のイタロ・カルヴィーノは言葉少なに、しかし毅然たる口調でこう言った。
「あの頃は、とりわけ冷い春だった。だが皆が燃えていた。レジスタンスこそは、荘重な国民的祝典であった。それ以外に言葉はない」
 最後にイタリアの著名なジャーナリストの一人ジォルジォ・ボッカ。彼は大戦中、青年将校として北イタリアで軍務についていたが、四三年九月のイタリア休戦とともにパルティザンに身を投じ、アルプス山中でレジスタンス闘争に明け暮れていた。
「四五年四月末のあの頃、われわれにとっての世界はカオス状態ではあったが、日々はなんと光り輝いていたことか。人々は皆、新しい秩序を構築しようと、まばゆい太陽の中を走り回っていた。死の恐怖はもはやなくなり、長いナチ・ファシズムの夜は明けようとしていた。
私はそれまでのパルティザン部隊を解散して、サヴィリアーノからクネオの自分の郷里に戻った。四月二十八日のことだった。
街々はすでに解放され、新しい秩序が生れていた。パルティザンだったエットーレ・ローザが新市長におさまっていた。県庁にも警察にも昨日まではパルティザンだった男達が、相変らず青、赤、緑のスカーフを首に巻いて、元パルティザンよろしく執務していた。
いまから思うと、もう一世紀も前のことのようだ。別の時代、別のイタリアのようにも思える。あの当時は、ひとつの時代の死と誕生を画した日々だった。数ヵ月後に日本で原子爆弾が爆発し、大戦はすべて終結した。ヨーロッパ中心主義も、ヨーロッパのヘゲモニー争奪戦も消えてなくなった。
間もなくあちこちの都市にアメリカやイギリスの装甲車が、また色とりどりのカーキ色の軍服を着た兵隊達がやって来たが、イタリア人は誰も、彼らを占領軍などとは見做してもいなかったし、思ってもいなかった。当時、イタリアの主権は馬鹿馬鹿しくも制限されていたが、イタリア人は皆、自分が『わが家の主人公』よろしく振舞っていた。
生き生きした蟻の大群は、食べ物を探し始めていた。親戚を確認し、借金を整理し、政治を進め、選挙を実施した。外国人にあれこれ指図させたり、イチャモンをつけさせたりさせまいとするかのように、自らの道は自分で探した。
私は外国の兵士達に、レジスタンスとパルティザンについて大いに語った。これはとても大事なことだった。そうすることにより、彼らに将来のイタリアへの信頼を持たせることができたからだ。二十ヵ月に及ぶパルティザンによる戦いは、デモクラシーと自由というものが連合軍からの贈りものではないという厳然たる証明となった。イタリア人自らがそれらを自分の血を流して獲得したからにほかならないからだ。
あの戦争という長い夜を、とうとう自分の手で脱出したという共通の気持が国民の間に湧き起ったことは、偉大な経験だった。人道的な人間性、連帯感、市民国家というものがそこから生れたからだ。そして国民の誰もが、新しいイタリアを作ろうとする連帯感は、あのレジスタンス精神とパルティザンの闘いの中に育まれていたのだ。
そのことを考えると、やはりイタリア人は偉大だとつくづく思わずにはいられない」
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