「コドモ時間」というのは、ボクの造語ですが、こんなコトバをわざわざ思いついたのにはワケがある。
コドモのころのことを思い出していると、どうもあのころの一日は、いまよりずっと長かったような気がします。大人とコドモでは一日の長さがほんとに違うんではないか?
でもたしかに、大人もコドモも、朝起きてゴハンを食べて、学校や会社へ行って、遊んだり仕事したり勉強したり、また家へ帰ってきて、ゴハンを食べたりテレビを見たり、お風呂に入ったり、同じ時間をすごして、寝るんです。
実感では、違うのに、たしかに同じ二十四時間をすごしているのには違いがない。このことを、どんなふうに理解したらいいんだろう? と考えていた時に思いついたのが、レコード盤理論というものなんですね(そんなに大層なもんじゃないんですが)。
レコード盤の回ってるところを見ながら、思いついた。最近はCDがレコードにとってかわって、レコード盤がうねうね回ってるところを見たりすることは少なくなってしまいましたが、あれを見てると、ちょっと不思議な気分があるんですよ。
ターンテーブルがあって、クルクルと回っている。その上にレコード盤が置いてあって回るわけですね、針を置くと、レコード盤から音がします。
始めはレコード盤の外側です。で、どんどん内側へ渦巻くように回っていくわけですね。始めは大きく回る、でも終わるころの一回転分は、始めに比べるとずいぶん小さくなってるじゃないですか。
でも一回転は同じ一回転、ターンテーブルが一回転するのを一日とすると、これをコドモ時間と大人時間の実感のモデルにできるかもしれない。
実際のレコード盤は、とちゅうで終わってしまってますが、この人生のレコード盤は、中心まで溝が刻まれている。どんどん小さな円になっていって、最後は点になる。ここが人生の終点です。
ボクらはレコード盤の溝に入ってしまうくらい小さな人間で、峡谷の一本道を歩いている。歩いてるつもりなんだけど、これはルームランナーみたいに、地面が動いているんですね。
コドモのころには、ずいぶん長い道のりを歩いている、一日の道のりはどんどん短くなっていって、最後にはまるで立ち止まったようになる。でも一日の回転は、どこにいる時にも同じである、というワケです。
こんなことを言ったり、考えたりしたからってなんでもないんですが、ボクはこんなことをしたりするのが好きなんですね、でレコード盤の上に浮かんでみて、コドモ時間を歩いてる自分のことを見おろしてみたりする。
球の飛んでこない外野で守備をしていたり、街灯をパチパチつけたり消したりしていたり、床屋さんのアメン棒の前に立ちつくしたり、遠足で迷子になったり、ピアノの音に耳をかたむけてたり、大工さんのかんな削りを見ていたり、大相撲のテレビを見ていたりするボクがいます。
さかあがりの練習をしていたり、学芸会で芝居をしたり、渡り廊下で女のコと出会ったりしています。
ここに収めた文は『母の友』っていう雑誌にコドモ時代のことを書くようにたのまれて書いたものです。ボクにとっては、かけがえのない思い出でも、それがほかの人におもしろいものとは思えないので、連載したころには、その時々の話題とからめて、意見めいた結論のためにダシにしていたんですが、一冊にまとめるのにあたって、編集部のすすめもあって、それらをバッサリ省きました。
ここにあるのは、格別とりたてて言うほどのことはない平凡なぼくの平凡なコドモ時間です。楽しんでもらえればいいんですが。