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黒い扇09

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:花曇り車の中で、岩谷忠男は蒼白《そうはく》になっていた。怒りのためである。平常、底の知れない男と言われる彼特有の薄い微笑
(单词翻译:双击或拖选)
花曇り

車の中で、岩谷忠男は蒼白《そうはく》になっていた。怒りのためである。
平常、底の知れない男と言われる彼特有の薄い微笑は口許から全く消え、細い指先が神経質に痙攣《けいれん》している。
花曇りの東京を、彼を乗せた車は神宮|外苑《がいえん》を抜けて赤坂へ出た。
「薄墨」という看板の出た料亭の前へぴたりと横づけになる。女中に迎えられ、運転手のうやうやしく開けたドアを下りた岩谷は、流石《さすが》に生ま生ましい怒りだけは顔から消した。歩きぶりもゆったりと見せている。
「いらっしゃいまし。お忙しくていらっしゃいますざんしょう」
愛想よく迎えたお内儀《かみ》の表情の底にも、ただならぬ気配がある。
「ますみは来ているだろうね」
ぶすりと岩谷はお内儀を見た。
「はい、先程からお待ちになっていらっしゃいますよ……」
先に立って廊下を案内しながら、不安気に言い足した。
「あの……小早川……さん……とおっしゃるんざんすか、演出家の……あちらもご一緒に……」
「なに……」
岩谷の足が止まった。
「男も来ているのか……」
足許に目を落し、ふんと鼻の先で嘲《あざけ》った。
「いいだろう……」
語尾に圧《おさ》えた憤《いきどお》りがある。お内儀《かみ》はおどおどと部屋の襖《ふすま》を開けた。
それが癖で、ちょっとネクタイの結び目に手をやって、岩谷は敷居をまたいだ。
床の間の前の席が空けられていて、紫檀《したん》のテーブルの右に茜《あかね》ますみが、隣に長身の男の横顔が見える。
いつもなら襖ぎわまで出迎えて、岩谷の体へ甘えるようなそぶりを見せる茜ますみだったが、今日は立って来ようともしない。
岩谷は床の間を背に、厚い座布団へどっかとあぐらを組んだ。
お内儀《かみ》が女中の運んできたおしぼりと茶器を自分で岩谷へすすめる。気を使った素振りであった。
「それじゃ、私はお話が済むまで御遠慮申して……」
お内儀のあげかけた膝《ひざ》を、岩谷は制した。
「お内儀も同席して貰《もら》おうか、そのほうが話の筋が立つ。いいだろうね。ますみ」
ぴしっと呼び捨てにした。茜ますみはちらと目をあげ、ゆっくりとうなずいた。
「よございますの。私がお邪魔申しましても……」
お内儀《かみ》は念を押してから居場所へ坐《すわ》り込んだ。落ち着かなく、又、居ずまいを直す。
午下《ひるさが》りの料亭は静かだった。自慢の庭の苔《こけ》が青い。三分咲きの山吹の黄が池水に映って揺れていた。
上着のポケットから鰐皮《わにがわ》を張ったシガレットケースを取り出し、一本をくわえかけて岩谷忠男は唇をゆがませた。
煙草をシガレットケースごとテーブルへ置く。
「わしとますみとの仲を最初っから知っているお内儀だ。あんたが傍にいてくれたほうがなにかと便利だろう」
お内儀が曖昧《あいまい》なうなずきを見せると、岩谷は再び内ポケットを探った。取り出したのは封筒である。茶色のハトロン紙の、ごくありふれたものである。一度、ポストを通過して来たもので切手にはスタンプが捺《お》してある。封は切られていた。
「こんなものが今朝、届いた。見て貰おうか……」
卓上に置いて、煙草をくわえた。お内儀が手ぎわよく火を点《つ》ける。これもいつもなら茜ますみの役目のものであった。
茜ますみはハトロン紙の封筒を暫《しばら》く凝視し、隣に坐《すわ》っている小早川|喬《たかし》の顔を仰いだ。どうしましょう、と相談するような目の色に媚《こび》が動く。
「拝見しなさい」
薄い唇を結んで小早川はずばりと言った。茜ますみは銀色のマニキュアの光る指を伸ばして封筒を取った。
宛名《あてな》は岩谷忠男殿となっている。渋谷区代々木初台××番地と書かれた住所の文字と同じく妙にぎこちなく四角いのは、差出人が筆蹟《ひつせき》をかくす目的で故意にそうしたようである。裏に差出人の名はない。
封筒の中から出て来たのは一枚のレターペーパーとタイプを打った二枚の薄い紙である。茜ますみはタイプ文字を先に読んだ。
小早川喬氏と茜ますみ氏との会合日時、及び会合場所は左記の通りであります。
三月十四日 新宿区|十二社《じゆうにそう》××番地 三田村(待合)
午後七時三十分—十一時。
十七日 横浜市中区××町ホテルニューグランド。
一泊。ルームナンバー三百十五番(二人部屋ダブルベッド、バスルーム付)東京よりの往復タクシー利用
二十日渋谷区××町、京屋旅館
午後十一時五分—午前二時十分
二十二日午後二時二十分小早川氏運転(オースチン車番号××番)、世田谷区経堂の自宅を出発、渋谷東急会館前にて茜ますみ氏乗車、京浜第二国道を経て熱海「××ホテル」到着午後六時十三分(途中、大磯《おおいそ》付近にて小休憩あり)
ルームナンバー百十九、翌二十三日午後一時五分××ホテル出発、十国峠《じつこくとうげ》を経て帰京。
ばさりと音を立てて茜ますみの手から数枚の写真がこぼれた。タイプの紙の中にはさんであったものである。抱き合い、顔を密接させている小早川喬と茜ますみの写真である。
男女の顔はかなり、はっきり撮れていた。望遠レンズを使ったものだろう。
他の二枚は旅館から出てくる二人であった。こっちの方は顔は殆《ほと》んどわからないくらいぼやけている。ただ服装、体つき、ポーズで小早川喬と茜ますみを深く知っている人間なら、すぐそれと判別出来た。
茜ますみの顔色は流石《さすが》に変わっていた。写真へ視線をやった小早川喬もぎょっとした風である。
茜ますみはレターペーパーをひろげた。紙の周囲がはっきりとふるえている。
レターペーパーの文字は活字であった。新聞か雑誌の活字を一個ずつ切り抜いてレターペーパーに貼《は》りつけて文章としてある。
謹 啓
御貴殿がお世話なされておる茜ますみ女史に同封の報告書の如《ごと》きスキャンダルがある事をお知らせします。
お節介なようですが、私は昔、御貴殿に御恩を受けた者であり、たまたま茜ますみ女史と小早川喬との事実を知り、コキュの立場に置かれた御貴殿を見るに見かねて御報告申し上げるものであります。
念のため同封せる写真は、調査を依頼した秘密探偵社員の知らせで現場へ直行した私が、私自身で撮影したものであります。車内における二人の写真は熱海××ホテルの帰途を尾行し十国峠付近にて望遠レンズを用い、停車中の現場を写したものであります。この撮影後、人通りのないを幸い、車中で如何《いか》なる醜行が白昼行われたかは申し上げるにしのびません。
私がかような非礼を敢《あえ》て行いましたのは単なる物好きでは決して無く、ただただ貴殿の御為を思えばこその行為であります。悪しからず、私の志をおくみ取り下さい。
岩谷忠男殿
御恩を受けし者より
レターペーパーを喰《く》い入るように見つめている茜ますみを見るような見ないような素振りで、岩谷忠男は煙草をすっていた。眉《まゆ》をひそめる。
小早川喬が突然、手を伸ばしてレターペーパーをますみの手から奪った。視線がさっと紙面を素通りし、タイプの方も一瞥《いちべつ》した。写真とペーパーを一まとめにして封筒に入れ、卓上へ戻した。
「茜さん、岩谷さんが貴女《あなた》をここへ呼んだ用件をお聞きなさい」
静かすぎる、むしろふてぶてしい声で小早川は茜ますみへ言った。
「はい……そう致しますわ」
男と目を見合わせて、茜ますみは、しなやかな体を岩谷へ向けた。
「私に御用とおっしゃいますのは……なんでございましょう」
驚愕《きようがく》も狼狽《ろうばい》もきれいに消えた頬《ほお》には微笑すら浮かんでいる。
岩谷忠男は、まじまじと女の顔を眺めた。唖然《あぜん》とし、次に、にんまりと笑った。
「そうか、お前の返辞がそれか……」
卓上の封筒をぽいとお内儀《かみ》の前に投げた。
「見るがいい。その返辞がこの有様なのだ」
お内儀は慌しく手紙と報告書を読み、写真を見た。
「まあ、ますみさん、あんたって人は……」
眼を釣り上げてお内儀は叫んだ。
「よくもいけしゃあしゃあと岩谷さんの前へ出られたもんだね。岩谷さんにこんな恥をおかかせして……」
肥った手が、むっちりした膝《ひざ》の上でぴくぴく動いた。
「あんた、今まで岩谷さんにはどのくらいお世話になったか知れやしない。茜流の家元を継いで、舞踊界で一ぱしな口をきけるようになったのも、一体どなたさまのおかげだと思っているのさ。受けた御恩を足蹴《あしげ》にして、あんた、それで済むと思ってるの」
岩谷は鷹揚《おうよう》にお内儀を手で制した。
「ま、そう興奮しちゃあいけないよ。それでは話にもなにもなりはしない」
改まった眼をますみと小早川へ注いだ。
「ますみ、私は縁があってあんたが先代茜よしみの内弟子の時分からあんたを援助して来た。十年にもなるその間には、あんた色恋|沙汰《ざた》は一度や二度じゃなかった筈《はず》だ。しかし派手な芸界の事だ。針ほどの事を棒と言い立てる連中も少なくないことだし、私も野暮な男にはなりたくない。お前が噂《うわさ》にすぎないと申し開きをするのを信用して、その他の事は見て見ないふりを続けて来た。そのあげくが、昨年の海東英次の一件だ。ますみ、お前はあの時、私になんと言った……」
半分ほど吸った外国煙草を無造作に灰皿へ捨て、岩谷は茜ますみの白い横顔をきびしく見た。
「お前は、あの時、私の前へ手を突いて二度とこんな真似はしない、人の噂の口に上るような振る舞いは慎むから今度の始末だけはなんとかして頂きたいと泣かんばかりに頼んだ。お前がそれほどまでに言うならと、私は気持ちよく海東の葬式万端の費用を出してもやった。あれからまだ半年も経ってはいない。如何《いか》に物忘れのひどい人間でも自分の口から出た言葉だ。忘れましたでは済ませられまい。お前の口からはっきり聞こうじゃないか……」
お内儀《かみ》も膝《ひざ》をすすめた。
「岩谷さんのおっしゃる通りですよ。あんたって人は本当にまあ……どういうんでしょうね。私もあんたの歿《な》くなったお母さんとは昔なじみだからこれまでなにかとあんたの味方になって来たつもりだけれど……お店の大切なお客様に御迷惑をおかけしては私の顔が立ちません。申し開きがあるなら、ますみさん早くおっしゃいな」
ますみはすっと顔を上げた。
悪びれない表情でお内儀と岩谷へ等分な視線を送った。
「申し開きなぞございませんわ」
しらじらしい声である。
「ますみさん……」
悲鳴に似たお内儀《かみ》の声が、
「あんた、なんてことを……」
ますみはそれにも微笑をもって応じた。
「なにも申し開きはありませんのよ」
「すると、ますみ、この手紙と報告書の事実をお前は認めるというのだね」
表面はあくまで落ち着きを装っていたが、岩谷の顔は蒼白《あおじろ》んでいた。
「どうとも御推量下さいまし。おまかせ致しますわ」
茜ますみは艶な目を岩谷から小早川へ移した。安心している女の目である。余裕が充分だった。
「ますみさん、よくもそんな顔が出来ますね。岩谷さんを裏切って……火遊びもたいがいにしなさい……」
「お内儀さん……」
茜ますみは唇のすみに冷笑を浮かべた。
「私、岩谷さんを裏切ったとは思いませんの。そりゃあ、今日まで岩谷さんには随分お世話になりました。御恩は有難いと思っています。けれどその御世話は決して無報酬だったわけではございません」
ずばりとますみは言い、目の奥で又、笑った。
「ね、そうでございましょう。岩谷さん、あたくしは岩谷さんの奥さんじゃございませんわ。岩谷さんにはれっきとした奥さんもお子さんもございます。岩谷さんと私はあくまでも男と女のおつき合い、ですから私、一度だって岩谷さんに奥さんと別れて正式に結婚してくれなどと申し上げたことはございませんでしたわね」
「当たり前ですよ。そんな厚かましい……」
お内儀《かみ》の怒りを、ますみは完全に無視して言い続けた。
「同時に、岩谷さんはいつも私におっしゃってました。いい相手が出来たらいつでも結婚するようにって……」
「たしかに、それは言った。本心だ。が、私が言うのはまっとうな結婚のことだ。私にかくれた浮気を認めるわけじゃない」
岩谷は新しく煙草を抜いた。ますみがライターを点《つ》けた。小早川喬の前にあったライターである。岩谷は顔をそむけ自分でマッチをすった。
パチッと音を立ててライターを消すと、ますみはそれを小早川喬の手元へ戻した。微笑で男をみつめる。
「あなた、申し上げてもいいかしら」
甘えたますみの声に小早川が微笑した。声は出さずに肯定する。茜ますみは静かに岩谷へ向き直った。
「岩谷さん、私、こちら……ご存知でございますわね。演劇評論家の小早川喬さん。私、この方と結婚致しますの」
「結婚……?」
「ええ、実は式の日取りとか、お仲人やら、話がもっと具体化してから改めて岩谷さんへご相談申し上げるつもりで居りましたの」
さらりと言ってのけて茜ますみはしなやかな指を膝《ひざ》の上で組んだ。
「ますみさん、それ、本気なんですか」
薄墨のお内儀の言葉へ、ますみは丁寧すぎる会釈をした。
「誰《だれ》が洒落《しやれ》や冗談で結婚話を致しましょうかしら。私たち真剣なんですのよ。私だって、もう年齢《とし》でございますもの、そろそろ生活の安定というんでしょうか、精神的にも落ち着いて、じっくりした仕事をしてみたいんですの。小早川さんはその点でも私を理解して下さいましたわねえ、貴方《あなた》、そうですわね」
茜ますみの手が伸びて、小早川の手を掴《つか》んだ。
「小早川さんに伺いましょう。今ますみさんのおっしゃった事はほんとうなんざんしょうね。あなたもご了解ずみのことなんざんしょうね」
お内儀《かみ》の声は甲高《かんだか》くなっていた。岩谷は、そ知らぬ顔で庭を眺めていたが、唇はぶすりと一文字に結ばれている。不機嫌が露骨だった。
「ますみが申したことは事実です。二人は間もなく結婚する事になっています」
小早川はますみに手を握られたまま、悠然と答えた。
「そんな恥しらずな……小早川さん、あんたは茜ますみと、こちらの岩谷さんとの関係を、よもやご存知ないわけじゃありますまいね」
「私は、ますみの、この人の過去は問いません。私たちは現在、愛し合い、結婚を求めているのです。それだけで充分じゃありませんか」
ますみの目へ微笑を投げた。きざとも見える調子で続けた。
「男と女が出合う。愛し合う。結びつきを求める。これは偉大な事ですよ。僕も、ますみも過去にいくつかの恋愛をし、情事を持っている。しかも、ますみが心から結婚を願ったのは僕へだし、僕もますみに逢《あ》って、はじめてその問題を考えた。二人は当然、逢うべくして逢い、そして結婚への道を歩んだ。自然の理というか、人生の妙というか、余人の計り知るところではないんですよ」
「よろしい。わかった」
岩谷は太い声で、小早川の饒舌《じようぜつ》を遮った。軽侮のはっきりした視線を小早川から茜ますみへ送ると思い切ったように言った。
「君たちが、そうまで言うなら自由にしたまえ。ますみとは今日限り縁を切ってやる」
きっぱりした語尾に、薄い未練が残っていた。
小早川喬と茜ますみを乗せたオースチンは赤坂から五反田《ごたんだ》へ抜け、第二京浜国道を走った。
「あら、雨が……」
「ふむ」
窓に白く糸を引いたような雨足が急に早くなった。それでなくても暮れなずんだ空は灰色に重い。
「とうとう降り出したわ」
助手席で、ますみは華やいだ声を立てた。
「ほこりがひどくて、くさくさしてたの。いい雨だわ。まるで、私たちの過去を洗い流してしまうみたいね」
体をよじって膝《ひざ》を男の膝へ密着させた。男の片手がハンドルをはなれて女の肩を抱く。
雨の京浜国道は車が多かった。混雑する時刻でもある。
トラックが何台も続き、キャデラックやクライスラーのような高級乗用車が重なり合っている間を縫ってタクシーが走る。大抵がトラックや安全運転の自家用車を追い抜いて思い思いの方角へ消えて行くのに、一台だけ忠実に小早川喬の運転するオースチンの後へ従って東京から横浜へ入って来たタクシーがあった。無論、空車ではない。
東神奈川を過ぎると雨は小降りになっていた。
オースチンは昔の居留地跡、今はシルクセンターという大きなビルの建物の角を折れて山下公園沿いのゆったりした道路を走り、スピードを落としてGホテルの駐車場へ入った。
鍵《かぎ》をしめ、小早川は黒いレースのショールを肩からずらして立っている茜ますみを抱えるようにしてホテルの回転ドアを押した。古いホテルだけあって、造りも古風だが、がっちりしている。
正面の階段を上りフロントで部屋の交渉を済ます間、茜ますみは黒レースのショールで顔を埋めかくすような恰好《かつこう》をして立っていた。ボーイが鍵を持ち、エレベーターで部屋へ案内した。荷物がなにもないのがボーイには手持ちぶさたのようである。
部屋は港に面していた。
小早川がボーイにチップを渡している間に、ますみは窓のカーテンを少しばかり開いて港の灯を眺めていた。
ふっと肩を抱かれる。
「港の夜って、いつみてもきれい。でも雨上がりのせいかしら。いつもより、ずっとロマンチックな……」
あっと茜ますみは声を切った。男の唇が彼女の声ごと唇を呑《の》み込んだ。
「岩谷とも、こうして、ここの窓から大桟橋の灯を見たのだろう。え、そうじゃないか」
小早川は女の目をのぞき込み、茜ますみは媚《こび》を体中にみなぎらせた。
「そんなこと……あなた嫉《や》いていらっしゃるの……」
蛇《へび》のように絡んだ手が小早川の背を這《は》った。もつれ合った二つの体は、まだ夜の仕度の出来ていないベッドの上に倒れた。
小早川とますみとが屋上の食堂へ落ち着いたのは七時近かった。
食堂は圧倒的に外人が多い。中国服も目立った。横浜という場所柄でもあろうか。
やはり港のよく見える窓ぎわに席をとると、ますみは意味もなく小早川へ微笑を送った。
きちんと身じまいはしているが湯あがりのほてった頬《ほお》や首筋の辺りに、いきいきした情事のあとが残っている。眼だけが、僅《わず》かにけだるい翳《かげ》を漂わせていた。
柔らかく息づいている肩の辺りへさりげない眼を遊ばせながら、小早川は大輪の牡丹《ぼたん》の花がくずれるのにも似た彼女の先刻の姿態を思い出した。
ビールが運ばれ、オードブルの皿が並んだ。
「まず、乾杯しよう。二人の新しい人生へ対して……」
「プロジェット……」
気取った指でコップをあげ、茜ますみは、
「うれしいわ」
とつけ足した。
「しかし、なんだか不思議な気がするな」
オードブルのフォークを動かしながら、小早川はしみじみと言った。彼らしくない声音である。
「不思議って、なんですの」
「京都時代の貴女《あなた》……つまり栗本夏子さんと横浜のホテルで食事をする事になろうとは勿論《もちろん》……」
「結婚する羽目になろうとは夢にも思わなかったとおっしゃるのでございましょう」
ビールのコップのかげから、茜ますみの眼が笑った。
「私だって驚きましたわ。貴方《あなた》が三浦|呂舟《ろしゆう》先生の御門下生だったなんて……」
「いや、門下と言ったって大学時代に講義を聞いたというだけの師弟だがね。先生はあの時分、あなたの事をなよたけと称して居られた。僕らは、三浦先生のかぐや姫なんて噂《うわさ》を聞くたびに、あなたの美しさ、気高さに、ひそかに心をとどろかしたものだ」
ますみは含み笑いを窓へ逸《そ》らした。
「嫌ですわ。昔のことを……」
眼の底にきついものが覗《のぞ》いていた小早川の言葉が、彼女の或《あ》る急所を突いたのだ。
小早川は気づいていない。彼にとって、昔話はあくまでも昔ばなしに過ぎない。
「けど、あなたも罪な人だ。あの謹厳な、カトリック信者の三浦先生が、世間体も名誉も職業も投げ捨てて君に溺《おぼ》れ、遂には家庭まで崩壊し、あげくには君にまで捨てられる。当時の京都では随分な話題になったものだよ」
「それは、私のせいではありませんって何度も申し上げましたでしょう。いけないのは三浦先生自身ですわ。まだ西も東も、男女のわきまえもつかなかった私を手ごめ同様に自分のものになさった。あの時のかなしさ、口惜《くや》しさは男の方には想像も出来ない筈《はず》ですわ」
ますみは港の夜景に濡《ぬ》れたような瞳《ひとみ》を向けた。
「それに、私が先生とお別れしたのも、先生の御家庭のことや先生の立ち場を思えばこそですわ。堪えられませんでしたのよ。少しずつ世間が広くなり、自分の眼も開いてくると、みじめな自分の立ち場がつらいやら、苦しいやらで……私が先生の許を逃げ出したのは、女にとって自分を犠牲にする行為ですわ。それを……」
怨《え》んじるような眼が、ななめに小早川を見上げた。
「知っているよ。君が言うまでもない。誰《だれ》よりも君の性格を理解している僕じゃないかね」
「御存知なら、どうして私ばかりを悪者にするような言い方をなさいますの」
「そういうわけじゃない……」
「そうですわ、意地悪な方……」
ビールを小早川のコップに注ぎ足しながら、ふと本気な眼の色をした。
「そんなことをおっしゃると、私、死んでしまいたくなりますわ」
「おいおい、冗談じゃないよ。折角、結婚にまでこぎつけて、君に死なれてたまるものかな」
ますみは男の軽い口調を、たしなめるように睨《にら》んでみせた。一人言めいた呟《つぶや》きが、
「一人で死ぬのは淋《さび》しいから嫌……こんなに好きになってしまった貴方《あなた》ですもの、この世に残しておくのは心残りだわ」
喉《のど》の奥でしのび笑った。
「私、やきもち焼きなんですもの。貴方を残しては死んでも死に切れない。いっそ、貴方を殺してしまうかも知れないわ」
「とんだ安珍清姫《あんちんきよひめ》だね。それとも大時代に道行と洒落《しやれ》ようか。心中ものの踊りは君の十八番だが、相手が僕じゃ役不足だね。若|女形《おやま》の中村菊四でも連れて来るか」
「にくらしい方ね。あなたは……」
しのびやかな二人だけに通じる笑いが洩《も》れ、新しくビールのコップが空けられた。
ボーイが別な皿を運び、ビールが又、抜かれた。
窓の下は白い霧が流れていた。
山下公園も人影がなく、街路に走る車も少なかった。
ホテルの灯も霧にぼやけ、夜更けに従ってひっそりと静まっている。
不意に黒い人影が動いた。
Gホテルの駐車場の辺りである。動いたと見えたのは一瞬で、すぐに闇《やみ》に吸われて見えなくなってしまった。
真新しい外国車が駐車場へ入った。Gホテルへ泊まっているアメリカ人らしい。やせた夫と肥った妻とがレディファーストの国らしく女を先に立ててホテルのドアを入って行った。
茜ますみが大桟橋の辺までドライブしてみたいと言い出したのは九時過ぎだった。
「港の夜景をもっとそばで見たいの。それとチャイナタウンの方も行ってみたいわ」
ホテルのロビーで今日、イギリスの観光船が着いたという話を聞いていた。食事は済んでいたが寝るにはまだ早く、二人とも昼からの出来事で多少は気持も昂《たかぶ》っていた。
「腹ごなしにざっと回ってみるか」
身仕度をしてエレベーターで下りた。フロントへ鍵《かぎ》をあずける役目は茜ますみが引き受け、小早川は一足先に駐車場へ出た。
「はてな……」
確かに置いた筈《はず》の位置にオースチンがない。キーホールダーをがちゃがちゃさせながら周囲を見回した。愛用車はなかった。
(盗《と》られたかな……)
そんな馬鹿《ばか》なことが……と否定した。鍵はかけてあったし、ホテルの駐車場ではある。
だが、駐車場をくまなく探してもオースチンはない。
小早川はホテルの係員を呼ぶつもりで一度駐車場から出た。ホテルの入口へ続く石段を上がりかけてふと路上へ目をやった。
霧の深い、人一人通らない路上に、車が一台止まっていた。ホテルから約三百メートルくらい先の地点である。目をこらした。
オースチンらしいと小早川は見た。車のナンバーは見えない。
小早川は走り出した。車はこちら向きに止まっている。色も、感じも小早川の愛用車であった。運転台に人影はない。
(誰《だれ》が、あんな所へ持って行ったのか。悪戯《いたずら》もたいがいにして貰《もら》いたい)
それにしても鍵《かぎ》のかかっている車をどうやって運んだものかと不審だった。とにかく一刻も早く自分のものかどうか確かめたい。
歩道を走って行った小早川は足を止めた。道路工事で歩道がそこから先はそっくり掘り返されて穴が開いている。通行止の木札が霧にぼやけていた。
(危いもんだ。うっかりすると穴へ落ちる所だった……)
濃い霧の中で小早川はほっと息をついた。オースチンは工事中の歩道と平行に並んで止まっている。
それに近づくためには否応《いやおう》なしに車道へ下りなければならない。小早川は足許に注意しながら車道へ出た。オースチンと彼との距離は十メートルと離れていない。靴に石が当たった。
(危い……)
と思う。とたんに消えていた車のヘッドライトが点《つ》いた。眩《まぶ》しい。小早川は反射的に手で顔をおおった。
茜ますみは黒いレースのショールを髪にすっぽり巻いてホテルの玄関を出た。その目前を物凄《ものすご》いスピードで車が走り去った。
霧がじわじわとオースチンを呑《の》み込み、地面を低く這《は》い回った。
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