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受精22

时间: 2020-09-30    进入日语论坛
核心提示:22 寛順《カンスン》は静かにドアを閉め、鍵《かぎ》をかけた。隣室の舞子はもう寝入っている頃だろう。十一時を少しまわってい
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 寛順《カンスン》は静かにドアを閉め、鍵《かぎ》をかけた。隣室の舞子はもう寝入っている頃だろう。十一時を少しまわっていた。風がなく、まだ昼間の熱気が室内に残っている。蝉《せみ》の声が遠くでする。日中よりは間のびした鳴き方だ。
 廊下の照明はついており、遠くからでもこちらの動きは分かるはずだ。黒のブラウスに黒のスパッツを身につけていた。暗がりで目立たなくするためだが、深夜に歩き回っても怪しまれる服装ではないつもりだ。
 ポーチの中には、小型の懐中電灯と筆記用具だけしか入れていない。カメラは断念した。フラッシュはどうせ使えない。ある程度様子が分かれば、改めて現場に行くこともできる。最初からすべてを手にしようとするのは危険だ。
 階下に降りたとき、中庭のヤシの木の下に人影が立っているのに気がつく。寛順は階段の手摺に手をかけたまま、目をこらした。
「東振《トンジン》」
 小さな声が口から漏れた。そのまま中庭の芝生を踏んで近づく。確かに東振だ。笑いかけ、白い歯が唇の間からこぼれた。
「出てくる頃だと思って、ずっと待っていた」
 東振は低い声で言った。
「わたしが出て来なかったら、どうするつもりだったの?」
 寛順はまだ胸の高まりを感じる。
「その時は朝まで待つさ。待つことには慣れている」
 東振は優しく寛順の手をとった。庭園と海辺を仕切る生垣の方へ早足で歩く。もう敷地内は隈《くま》なく知り尽くしているような足取りだ。
 背をかがめて生垣の隙間《すきま》を通り抜けると、目の前に砂浜が広がった。いつの間にか蝉の声が波音に変わっていた。
 生垣が死角になって、病院の建物は見えない。渚《なぎさ》の向こうに海があり、左右に続く砂浜は数百メートル先で闇《やみ》に溶け込んでいる。二人だけの場所だった。
「寛順、会いたかった」
 東振は寛順を抱き締める。頑丈な両腕の中に抱きすくめられると、他に何もいらなくなる。その瞬間、自分が確かに生きている感覚に包まれる。
「裸になってくれ」
 もどかしげに東振が言う。寛順はブラウスに手をかける。一枚一枚服をはぎとっていく時間も、寛順は好きだった。余分な感情を浄化していき、全部を脱ぎ捨てたとき、東振が好きだという思いだけになる。
 乳房が星明かりの下で露《あらわ》になる。肌に触れる大気の冷ややかさが心地良い。
 衣服の上に全裸で横たわった。見えていた星が東振の身体《からだ》で見えなくなる。
「東振、会えて嬉《うれ》しい」
 寛順は目を開け、東振の頭をしっかりと両手でつかむ。東振の熱い息が下降していく。
 東振の舌がその場所をとらえていた。身をのけぞらせる。もう目を開けていることができない。閉じた目にしかし、星の明かりはいつまでも残っている気がした。
「東振が欲しい」
 やっとそれだけを言う。脚がひとりでに開く。まるで大きな波をそこに受けとめるように。
 波は東振そのものといってもよかった。波が高まるにつれて、身体の感覚が麻痺《まひ》してくる。寛順は声を上げ、東振の波に乗る。
 東振がおもむろに身をひく。寛順の顔を見つめ、好きだよと言う。
 また身体がゆっくり揺れる。波の動きだった。
 うねりが来るたび寛順の口から小さな声が漏れる。身体全体が東振の動きに同調していた。二人の身体が離れ、身体が二つに折り曲げられたとき、寛順は自分の位置さえ分からなくなっている。
 自分はひとつの球形だった。東振に愛撫《あいぶ》されるゴムマリだ。丸くへこみ、また膨らむ。弾力には限度がない。東振の形と動きに合わせて、寛順の球体は自在な形をとる。
 これまでも、東振と会うたびに、自分は球形になっていた。最初は故郷の村での城壁の傍だった。九月の日暮れ時で、石はまだ昼間の温《ぬく》もりを残していた。藁《わら》屋根はもう古びて、所々隙間ができていたが、たとえ城壁の上を人が通っても、姿は隠してくれる。東振は陽焼けした身体を寛順に密着させ、そのままひとつになった。寛順は自分が球形になっていくのを感じた。手足の凹凸がなくなり、胴体が膨らみ、どこまでも弾みはじめる。ゴムマリだった。
 ゴムマリになった場所を、寛順はひとつひとつ記憶している。稲刈り前の田んぼは乾いた匂《にお》いがし、裸で横たわると、黄色い稲が壁になり、真青な空だけしか、もう二人を眺めているものはなかった。一日中でもその空の下で過ごせそうだった。日が翳《かげ》ってきたとき、服を着て立ち上がった。山陰に沈みかけた夕陽が、穂波を一面|橙色《だいだいいろ》に染め上げ、東振の顔も柿色に輝いた。
 東振の魚捕りについて行ったときも、両側は竹藪《たけやぶ》で、頭上に青い空がのぞいていた。川上にも川下にも人の姿は見えず、川の水だけが音をたてて流れている。竹の間から漏れた光が流れの表面でキラキラ光る。砂洲《さす》の四分の一ほどが日なたになっていた。その乾いた場所に衣服を脱ぎ捨てて横たわった。自分が人魚になった気がした。きれいだよ、東振が言った。笹の間から漏れる光がプリズムを通ったように輝いて、水面も砂も斑《まだら》になった。二人の身体にも、同じような光の斑ができた。
 青い線が水面すれすれ、顔の傍を走り抜ける。カワセミだと東振が言った。
「わたしたちを見に来たのかしら」
 二人の裸が、カワセミの目にはどう映ったのだろうか。
「必ず戻って来る」
 東振が確信あり気に答える。本当かなと思いながら水音を聞いていた。
「ほら戻ってきた」
 耳元で東振の声がする。カワセミの通り過ぎた残像だけを見たような気がした。
 ひなげしの咲く野原でも球形になった。山裾《やますそ》の斜面には梨畑が広がり、東振について剪定《せんてい》に行った帰りだった。中腹の公園に小学生の一団が遠足に来ていた。子供たちの声が届く。
 地面から見上げるひなげしは大きな植物のようだった。青空に向けて茎を伸ばし、葉を広げ、橙色と赤の花を誇らしげにさし出している。一面花だらけというのに、花の匂いはしない。快い風に、汗ばんでいた身体はすぐにさらさらになった。
「働いたあと、寛順を抱くのが一番いい」
 東振が囁《ささや》く。
「仕事の途中でもよかったわ」
 東振がいれば、いつどこででも球形になれる気がした。
 ひばりの声がした。衣服をつけながら、空を見上げる。陽光が眩《まぶ》しいだけで、どこにも鳥の姿は見えない。
「あそこだよ」
 東振が指さす方向をしばらく見つめていると、青い空のなかに黒い一点が見えた。ほんのゴマの実みたいな点だ。
「あそこからだと、わたしたちの身体は見えなかったはず」
「いや、ひばりの目は人間の目とは違う。どんなに高く上がっても、自分の巣のありかは知っているからね。さっきのも見られた」
 東振は笑う。「だから鳴いたんだよ」
「どう言って?」
「巣が近くにあるので、長居はするなって」
「じゃ、しばらく居てやろうかな。意地悪してやる」
 寛順も笑った。
 
 波の音がする。山裾のひなげし畑でひばりの声を耳にしたときから、もう何年もたってしまった気がする。こんな異郷の地まで来たことが嘘《うそ》のようだ。しかしあのときの自分と今の自分をつないでいるのが東振なのだ。東振は変わらない。
 東振とはここに来てからも毎日のように会えた。ドクター・ライヒェルの面接が終わって、別室の戸を開けると、松湖寺《ソノサ》と同じ造りの御堂がそこにあった。老師が語りかけ、梵語《ぼんご》でのお経が始まる。寛順は椅子《いす》にかけたまま、じっと頭を垂れる。
 お経の途中で隣室に促される。床は透明で、迷路が曲面の透明な壁で作られていた。迷路の中をどう歩くかは、足元がほのかに浮き上がるので判る。
 行き着く先は決まっていた。迷路の中央に位置するガラスの寝台に横たわる。目を閉じると身体がいったん浮き、それから静かに沈むような気がしてくる。そのあと身体は横滑りになり、明るい場所に出るのだ。
 あるとき、岬の先端にある古い城壁の外を、東振と歩いた。東振はそこを何度も訪れたような顔をして案内してくれる。城壁の石垣は黒く、それだけで三階分くらいの高さがあり、上に漆喰《しつくい》造りの壁がさらにのっている。無粋な窓からは、その建物が宮殿ではなく、牢獄《ろうごく》のような雰囲気が伝わってきた。
「アフリカから運んできた奴隷を一定期間、入れておくための場所だったんだ」
 東振が言った。
 海風をよけるようにして、石垣の陰に入口が設けられていた。石の冷たさなのだろう、中にはいると、ひやりとした。全体に屋根のある建物だと思ったのは間違いで、中庭をロの字形に囲んで、三層の部屋が並んでいた。中庭の一角は、小さな舞台を見おろすように十数段の観客席が四半円形にとり巻いている。
「お芝居でもしたのかしら」
 寛順が訊《き》くと東振は激しく首を振った。
「品定めの場所だよ。奴隷があそこに連れ出され、白人の買い主たちが観客席に坐《すわ》って値段をつける。これがその証拠」
 東振は石の舞台に上がり、壁にとりつけてある鉄の輪を指さした。「奴隷につけた鎖をこれに通したんだ」
 そこに立ってみると、階段の上に本当に買い主たちがいて、じっと視線が注がれている錯覚がした。
 そんな市が立つ日まで、奴隷たちは石でできた部屋に閉じ込められていたのだ。
 部屋は十メートル四方だろうか、真中に一段低い通路が設けられ、左右が高くなっている。奴隷は足を通路に向けて横たわるのだろう。足枷《あしかせ》用の金具が、通路の側面に十数個ずつはめ込まれていた。
「二十四人分の部屋なのね」
 金具の数を数えて寛順が言う。
「ちょうど二ダースだ。人間も物品と同じだったんだ」
 東振が答える。
 同じような部屋が、向こう側とこちら側に六部屋ずつあった。片側だけで一グロス、両側で二グロスの奴隷が繋《つな》がれていた勘定になる。
 東振は黙りこくったまま、二階へ続く石段を登る。二階も一階と同じ造作になっていた。長方形の部屋は調理場であり、反対側がトイレになっている。
「汚物はここから直接海に落ちていったのだろうね」
 滑り台のような穴が、急角度で下の方まで突き抜けている。海面は見えなかったが、満潮になれば、穴の開口部まで潮の流れが来るのだろう。
 三階の各部屋は比較的狭く、衛兵や管理人たちの居室だったようだ。石の床と壁にもう風化が始まっていた。
 東振は屋上に寛順を誘った。人ひとりがやっと通れるような狭い石段を上がりきると、四方の視界がひらけた。三方が海で、陸続きの先には白っぽい街並と港が眺められた。
「奴隷たちの誰ひとり、ここまでは上がれなかったろうね。ここにいたのは衛兵たちだ。奴隷船が水平線の向こうに見えたら、すぐ親方に知らせたんだろう」
 すぐそばに東振の顔があった。「二人で住むなら、この屋上でもいい。窓からいつも海が見えて、天井を開けると星がすぐ近くまで降りてくる」
「木のベッドを外に出して眠れば、星も海も全部眺められる。奴隷でなくて良かった」
 寛順はベッドの置き場所を考えるように歩き回る。
「ここが部屋の入口で、ここが台所、ここにソファーを置いて──」
 東振は石の銃眼に寄りかかって寛順の動きを眺める。
「はいベッドの用意ができました。どうぞ」
 寛順が勧めると、東振は石の上に横たわる。その横に寛順も腰をおろす。廃墟《はいきよ》の中にいるのは二人きりだ。乾いた風が吹き抜ける。
 東振の皮膚の熱さと石の温もりがほとんど等質だ。
 頭の中に奴隷の姿が浮かぶ。足枷で繋がれて眠るのと、こうやって愛する男に思う存分抱かれるのと、何という違いだろう。
「東振、好きよ」
 寛順の声を海風がどこかに運び去る。「好きよ」
 何度も繰り返す。また肌に汗がにじみ出す。
 寛順は目を開ける。陽光がふたりの身体を暖かく包み込んでいる。目を閉じる。東振が寛順の名を呼んだ。東振の声だ。東振からそうやって何百回、何千回呼ばれただろう。死ぬまで呼ばれ続けたい。
 東振の身体は日なたの匂いがした。田畑で陽にさらされて働き続けたときの匂いだ。一本一本の逞《たくま》しい筋肉が陽の光をたっぷり吸い込んでいる。
「ほら寛順、耳を澄ませてごらん」
 身体を寄せたままで東振が言う。音が響いてくるのは吹き抜けの中庭の方からだ。セリ市のような掛け声だった。
「奴隷がひとりずつセリにかけられている。鎖につながれた奴隷は涙を浮かべて空を仰いでいるよ」
 まるでその光景が見えるかのように東振は言った。
「わたしたちのように裸かしら」
「動物が衣服をつけないのと同じ。男も女も裸。つけているのは足枷と手の鎖だけ」
 東振の返事に、寛順は慌てて自分の手足を眺める。足枷も鎖もついていなかった。
「わたしたちは解放された奴隷」
「そうだね。どこに行くのも自由だ。ぼくはいつも傍にいる」
 東振の静かな声が耳に届く。そうだ、この声を耳が記憶し、この肌が東振の感触を覚えている間は、東振はいつも自分の傍にいるのだ。
 不意に名前を呼ばれる。セリ市での名前のような気がして、寛順は目を開ける。衣服をまとい、ガラスの寝台の上に横たわっていた。
 周囲を取りまく壁の上方は、暗闇《くらやみ》のなかに溶け込んでいる。天井がどのくらい高いかは測りようがない。
 寝台から降りて通路に立つ。ゆっくり歩く。扉が開くと薄暗い御堂の中にはいっていた。極彩色の柱の間に老師が坐っている。
「元気そうで何よりだ」
 老師は深々と頷《うなず》く。
「白松山《ペクソンサン》の紅葉はもう色づきましたか」
 寛順は訊いた。
「それは見事なくらいだ。夕陽が当たると全山が黄色と紅色に染まる。池の傍に銀杏《いちよう》の樹があったのを覚えているかな」
 寛順の目の底に、一本だけそびえる古木が浮かび上がる。寺の境内と池の境にぽつんと立っていた。
「あれが今は黄金色になって、池に映っている姿が実に美しい」
 老師は背を向け、お経を唱え始める。
「もう行きなさい」
 やがて、背中を向けたままで老師が言った。読経の声を耳にしながら部屋を出る。
 廊下に並ぶ白い大理石の像が眩《まぶ》しい。乳房にとりつく赤ん坊を抱く優しげな母親像。しゃがんで子供と会話をしている母親。像はすべて母と子の交流を描いていた。
「ミズ・リー、もう準備は整いつつありますよ」
 ライヒェル女史が言った。「あなたの脳の状態、身体の準備状態ともに、順調に経過しています。あなたもそれを感じるはずです」
 その通りだと思った。
「他に気になることは?」
「ありません」
 寛順は言下に答える。
「それではまた明日がドクター・ヴァイガントの診察です」
 ライヒェル女史はドアを開け、丁重に寛順を送り出した。
 
 波の音がする。満天に星が輝いていた。東振が横にいる。満ち足りた気分だ。
「行くわ」
 寛順が立ち上がる。東振はすべてを了解しているように顎《あご》を引いた。
 後ろ姿に東振がじっと眼を注いでいるのが分かる。また会えるのだ。会えない時間が長ければ長いほど、会ったときの嬉《うれ》しさが膨らんだ。その期待で、一日一日を生きていけるのだ。
 庭に置かれた外灯が通路を照らしている。正面にレストランとカフェテラスの建物、右手は病院本館、左手には二階建のバンガロー風の病棟が見えていた。本館の一部三ヵ所にまだ明かりがともっている。それが病室か研究室かは判らなかった。
 腕時計を見た。十二時五分前だ。警備員に会った時の口実は考えている。眠れないので夜の海を眺めに行ったと答えれば、さして怪しまれないだろう。
 バーバラ・ハースがメモを残していた野外チェス盤が見える。薄明かりの中でチェスの像が小動物のようにうずくまっている。
 警備員の姿はない。
 本館の正面入口とは反対側に回る。地下一階に続く外階段を降りる。
 明かりはそこまでは届かず、寛順はペンシルライトをつけた。
 ステンレスの扉の横に数字盤がはめ込まれている。〈6307〉を素早く押した。扉が左右に開いた。身体を中に滑り込ませると、ひとりでに扉が閉まり、真暗闇になった。
 動かずに、目が闇に馴《な》れるまで待った。中から外に出るためには、扉の中央にあるボタンを押せばよいはずだ。いつでも逃げ出す覚悟はできていた。
 全くの暗闇で、壁にとりつけてあるリードランプだけが唯一の光だ。そのボタンを押せば廊下全体が明るくなるはずだった。
 耳を澄ます。どこかで換気扇が回る音がする。
 ペンシルライトを再びつけた。クリーム色のリノリュームの床が照らし出された。
 バーバラのメモによれば、エレベーターが廊下の中ほど、階段は廊下の突き当たりにあるはずだ。
 ライトを再び消して壁づたいに歩く。壁が途切れる。そこがエレベーターの昇降口だ。ライトをつけ、昇りのボタンを押すと、エレベーターの扉が開いて、光が思いきり広がった。中にはいって扉を閉める。昇るかどうか迷った。引き返すなら、今のうちのような気がした。また日を改めて来ればよいのだ。一回ずつ、道すじを延ばしていくこともできる。
 しかしこれまでは誰にも見つからずに順調にきている。昇ることに決めた。
 最上階の六階のボタンを押した。階段を使ったほうがよかったような気もした。
 エレベーターは音もなく上昇し、六階で停止する。開いた扉の陰に隠れてしばらく待った。扉が閉まりかけたとき、思い切って外に飛び出す。
 扉が完全に閉まる。廊下は真暗で、リードランプがかすかな光を放出している。壁に寄り添いながら、耳を澄ます。暗がりに馴れない目よりは、耳のほうが頼りになる。
 何も聞こえない。
 突然バーバラの死体が思い出された。鋭く首筋をえぐられ、膨らんだ腹部をいたわるようにして、水草の上に横たわっていた。
 いま自分を動かしているのは、バーバラの意志なのかもしれない。
 廊下には、部屋にはいる三つの入口があるはずで、そのどれも暗証番号は判っている。三つの大部屋がどういう用途の使い分けをされているかについて、バーバラは簡単な説明を加えていた。
 一番手前の部屋が〈標本《サンプル》〉、真中が〈個人《パーソナル》〉、一番奥が〈会社《カンパニー》〉 だ。
 ライトをつけて腕時計を見る。午前一時十三分。二時に巡回があるとバーバラは書き記していた。三つの部屋をすべて見る余裕があるかどうか。警備員の巡回が十分か二十分早まる可能性だってあるのだ。
 手前の扉の横にある数字盤を押す。扉の一部でクリック音がした。扉の中央に立つと両側に開いた。部屋の内部も暗闇だ。ライトの先に、巨大金庫のようなハンドルが浮かび上がった。
 寛順は息を潜めて、ライトの先端を少しずつ移動させる。正面には金庫、右には実験室のようなガラス張りのコーナーがあり、机の上に端末がのっている。手前の机にも端末が設置され、書類などはない。おそらくこの部屋自体が、わずかひとりか二人の人間によって管理されているのだろう。
 ハンドルに光を当てる。ハンドルは大小二つあって、それぞれにダイヤルがついているのも、バーバラのメモ通りだ。ダイヤルの目盛を記憶しているかどうか、寛順は頭のなかで確かめる。〈マン・オーチョン・サムベック・イーシボー〉と、数字だけはハングルで暗記しているのが不思議だ。
 五|桁《けた》のダイヤルを回し終え、小さいほうのハンドルに移ったとき、何か物音を聞いたような気がした。耳を澄ます。エレベーターの音だろうか。しかしその直後、廊下を踏みつける足音を聞きつけ、寛順は釘付《くぎづ》けになった。部屋の中には隠れる場所はない。机の下に身を入れたところで、すぐに見つかってしまう。
 寛順は反射的にダイヤルを回した。そこも五桁の数字だ。ハンカチをかぶせた指先が震える。右のハンドルを右へ二回、左のハンドルを左へ三回、夢中で回す。耳だけは廊下の足音を追っていた。
 ハンドルを引くと、大きな扉が手前に動いた。中がどうなっているか確める余裕はなかった。冷やりとした寒気が首筋に触れた。音をたてないように、ぶ厚い扉を閉めた。その瞬間を境にして、一切の音が消えた。そして一切の光も。
 恐らく、このぶ厚い扉を閉めたのと同時に、警備員は廊下の数字盤を操作したのではなかったか。
 音をたてないように扉は閉めたつもりだが、現実に音がしなかったかどうか。音を聞きたくない耳が、わずかな音を聞きもらしたような気もした。
 外の状況は全く判らなかった。寛順は観念する。暗闇の中で目だけは大きく見開いていた。
 急速に寒気を感じた。冷気は手先と首筋に容赦なくまとわりつく。寛順は扉に耳をつけようとして、反射的に身を退いた。吸い寄せられるほどの冷たさだった。
 金庫ではなく、冷凍室だ。そう直感したとき、恐怖が襲った。このままじっとしていれば、数分で全身が凍りついてしまうだろう。
 寛順はライトをつけた。透明なロッカーの中に防寒着のようなものが掛けられている。半透明の中仕切りの奥は、床から天井まで、数十段の棚が作られ、灰色の容器が隙間《すきま》なく並んでいた。
 寛順は防寒具の二着のうちの一着をとり、腕を通す。ロッカーに掛けている間は電流が通っているのか、防寒着の内側は生温かった。
 もう一着の防寒具を小脇《こわき》にかかえ、扉の傍で待機する。警備員がはいって来たとき、咄嗟《とつさ》に外に出、扉を閉めるつもりでいた。ダイヤルを回してしまえば、もう中から開けることはできまい。警備員は凍死を待つしかないのだ。
 扉が開けられる気配はない。もう十分ほどは経過しているだろう。外はもともと狭い空間だから、警備員が見回りに時間をとるとは考えにくかった。
 足先の感覚がなくなっていくのが分かる。寛順はロッカー内にあった長靴をはき、手袋をつけた。
 あと三、四分だと、寛順は自分に言いきかせる。
 中仕切りの奥は、さらに温度が低く設定されているらしかった。防寒服のフードを目深におろす。長居はできそうにない。
 ライトを棚に当てた。各容器に二つのアルファベットと六桁の数字が打たれていた。その中味が何かは判らない。
 寛順は扉の所まで戻り、防寒着を脱いだ。手袋と靴を元の位置に返し、扉の外に出る。
 廊下の様子をうかがい、音がしないのを確かめて、戸を開ける。暗い中に、リードランプの赤い光が五、六ヵ所灯っているだけだ。警備員がいつもの時間より早く巡回したとすれば、あと数時間は、ここまで上がって来ないだろう。残り二つの部屋を見る余裕はありそうだ。
 真中の部屋のドアの番号を押して中にはいる。暗闇の中に立ちつくしたあと、ペンシルライトの光を走らせる。端末をのせた机が四個、向かい合わせに置かれていた。入口と向かいあった壁は電光パネルになっていて、世界地図が描かれている。それ以外は何の変哲もない部屋だ。
 三番目の部屋も似たり寄ったりで、壁のパネルまでも同じに見えた。
 寛順はライトでパネルの隅から隅まで照らしてみる。地図自体は同じだが、世界中の大都市の横に会社名のようなものが併記されている。韓国のところにはソウルがあり、その脇にHANJINと書かれていた。韓進《ハンジン》という大会社で、運輸から証券までも扱っている複合企業だ。その韓進が、どうしてこの病院と関係があるのか。
 ボタンのようなものがパネルの右下の方にあった。果たしてそれがパネルの電源かどうかは確かめようがない。
 寛順は一瞬迷ったが、いったんペンシルライトを消し、暗闇のなかでそのボタンを押した。
 音はしなかった。パネルの後方に明かりが灯った。思ったよりも大きい。縦三メートル、横は五メートルくらいはあるだろうか。世界の主要都市が網羅されている。
 寛順は十秒ほどそれを眺めたあと、慌ててボタンを押す。パネルの照明が消えたとき、胸が高鳴っていた。窓はないと思っていたのだが、小窓が二つ、机の横につくられていた。カーテンはなく、室内の光は外にそのまま漏れたに違いない。
 寛順は部屋を出、エレベーターまで戻った。エレベーターが上がってくるまでの時間がもどかしい。扉が開いたとき、内部の明るさにどぎまぎした。
 地階まで降り、暗い廊下を歩き、玄関の外に出る。しばらく外の様子をうかがったあと、石段を登って地上にあがる。
 建物の中と比べて少し明るい。満月に近い月が、海とは反対側に傾いていた。
 建物を見上げて、最上階に小さな窓があるのを確かめる。室内に照明がついたのは、漏れた光で一目|瞭然《りようぜん》だった。
 ライトはつけずに、薄闇の中を海側に進んだ。
 波の音がしていた。どこかにほっとした気持が芽生えた。本館を振り返る。まだ明かりのついた部屋が三、四ヵ所はある。
「セニョリッタ」
 中庭にはいりかけたとき、後ろから声をかけられ、寛順は息を呑《の》む。黒人の警備員だった。白目だけが光を反射している。
「ボーア・ノイチ」
 努めて冷静に応じた。
「おひとりですか」
 警備員は寛順の胸元に光るキイ・ペンダントに眼を走らせた。病院の滞在客であることが判ったのか、語調を柔らげた。
「ええ、海亀が浜に上がっているのではないかと思って」
 咄嗟に思いついた言い訳だった。
「海亀の産卵はまだ先です。今夜はまだ早い」
 男は月を見上げた。「でもこんな時間にひとり歩きは危険です。次からはお友達と一緒にして下さい」
 警備員は白い歯を見せて微笑する。
「オブリガーダ」
 寛順は礼を言い、中庭の通路にはいる。男がじっと後ろ姿を眺めているような気配を感じた。
 プールの手前にある野外チェス盤の上に、さまざまな駒《こま》が見える。白と黒の区別が、今は月光の加減で見分けられた。バーバラのメモのはいった黒のキングは、まだ元の位置から動いていない。
 疲れと眠気が全身を襲ってきた。部屋のベッドでぐっすり眠りたい気がした。考えるのはそのあとだ。
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