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創造の人生18

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:品川・御殿山 NHKの受信機改造の仕事が軌道に乗り出してきた頃、東通工にまた面倒な問題が持ち上がった。消防自動車と同居し
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 品川・御殿山
 
 NHKの受信機改造の仕事が軌道に乗り出してきた頃、東通工にまた面倒な問題が持ち上がった。消防自動車と同居している三鷹台の車庫改造工場の持ち主から、立退きを要求されたことである。その理由は、持ち主が自分で使いたいということだったが、実際は電力事情の悪化によるものだった。
 商工省(通産省)の調査によると、終戦直後、一日平均の発電量は三〇九〇万キロワット/時だったものが、一年後の昭和二十一年八月には倍以上の七八〇〇万キロワット/時に回復していた。この数字は昭和年代に入ってから最高であった昭和十九年の八九パーセントに相当していた。一方、電力の消費量は昭和二十年一〇月には九億二七〇〇万キロワット/時だったものが、二十一年六月には二倍近くの一七億七七〇〇万キロワット/時と飛躍的に膨脹をとげていた。しかも、この年、夏場にかけての渇水が水力発電の能力を、また、石炭不足が火力発電の能力を、いちじるしく低下させた。
 そこで政府は、二十一年一一月に入って電力の使用制限を実施したが効き目がなく、一七日にはさらに大幅な使用制限を行なわざるを得なくなった。このため街からネオン灯が消え、家庭では電熱器が思うように使えなくなった。一二月に入ると電力事情はさらに悪化し、二二日からは午前七時から午後七時まで、停電を余儀なくされるという最悪の事態を招いてしまった。こうなると、昼間はラジオも聞けない。停電が解除される七時以降も、だしぬけに停電することもしばしばあった。ローソクが家庭の必需品になり、工場や映画館に〈休電日〉という名目の休日が設けられたのも、この頃である。
 そんな状態なのに、東通工の社員は、昼夜をわかたず働きづめに働く。家主である車庫の持ち主はそのとばっちりで、自分の家の電気が止められはしないかと不安になった。それが工場立退き要求につながったのであった。
 井深と盛田は、年の瀬の寒空の街に飛び出し、貸家を探しはじめた。創業時、ムリをして買った中古のダットサンも度重なる故障に音をあげ手放している。そのため貸家探しも、足を棒にして歩き回らなければならなかった。やっと見つけたのが品川御殿山にあった日本気化器の倉庫兼工場(現本社工場三号館)である。だが工場といってもひどいバラックで床はガタガタ、雨が降ると部屋のなかで傘をささなければならないというお粗末な木造建屋だった。
 建物はお粗末でも、ここなら全員が揃って仕事することができる。そう思った井深と盛田は、そこを借りることにした。昭和二十二年一月のことであった。
 引越しには金がかかる。すでに創業時の資本金は使ってしまい、二十一年一〇月に、井深にとって親代わりの存在である野村胡堂、盛田家などの出資を仰ぎ、資本金を六〇万円に増資したばかりであった。にもかかわらず、相次ぐ転居で資金は底をつき、社員の給与支給にも影響をおよぼしかねないほど逼迫していた。
 そこで井深は、盛田を伴って高井戸に住んでいた野村胡堂をふたたび訪ねた。当時野村は「銭形平次」が売れている最中で、余裕ある生活を送っていた。その野村に五万円ほど融資してもらい、急場をしのごうと思ったのである。ところが、いざその場になると、金のことがいいだせない。やっとのことで井深の口から出たのは「三万円ほど拝借したいのですが……」という言葉だった。これには盛田があわてた。そして「すみません。もう一万円お願いしたいのです」と、付け加えた。
 二人のやりとりを見ていた野村は、一瞬妙な顔をした。だがすぐ「いいでしょう」と、快く金を貸してくれた。不足分は、盛田の実家から融通してもらえることになり、なんとかピンチを乗り越えることができた。
 急場は逃れたものの、井深の理想である世の中のためになる新しい技術を開発し、商売をしていこうという仕事にはなかなか恵まれなかった。そんな矢先、NHKの島からふたたび思いがけない仕事を頼まれた。スタジオで使う音声調整卓をつくってくれというのだ。これは放送会館(旧NHK)を接収した占領軍からの要求であった。
 その頃東京・内幸町の放送会館はGHQの管理下におかれ、これはと思う部屋はCIE(民間情報教育局)と、CCD(民間検閲局)が、ほとんど取ってしまった。新聞界に睨みを利かしたCIEのインボデン少佐は一階、急進派のロス大尉を長とするラジオ課は四階、CCDは六階の一部といった具合である。そして放送局の組織運営から、人事問題、番組編成、検閲に至るまで、すべてに監視の目を光らせていた。NHKの職員が「戦時中のほうがまだまし」と嘆いた〈言論不自由時代〉はそれからはじまった。
 当時の放送種目は報道、娯楽番組が中心で、日本の伝統芸術である歌舞伎の中継やマゲもの、講談、浪花節のたぐいは、事前に英訳の台本を提出し、許可を得なければ放送できなかった。
 しかし、一方ではアメリカの放送システムや先進技術がどんどん現場に入り、放送技術の向上に貢献した。その推進役となったのが、ロスアンゼルスに本部をおくAFRS(米軍向け放送局)である。最初、AFRSは横浜に日本本部を設け、東京(WVUC)の三ヵ所から進駐軍向けの放送を開始した。東京のWVTRは、内幸町の放送会館の第一および第一五スタジオを占有し、またPTS(プログラム・トランスミッション・シーバース)が、第九、第一〇スタジオを使い、日本在住のレポーターがアメリカの放送網に向けて取材レポートや声の便りを送っていた。
 アメリカ軍の放送は、ディスクジョッキーをおいたショー形式の番組が中心である。したがってミキサー系統の整備や放送機器の高レベル化、スタジオの改造が必要であった。最初、AFRSもアメリカから必要な機器を持ち込み、自分でやるつもりだったが、それでは費用がかかりすぎる。そこでNHKの手で改修するようにと指示してきたのである。
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