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創造の人生64

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:アメーバー組織論 むかしから「事業は人なり」という。それを実証して見せたのはソニーだった。ソニーが急成長を遂げられたのも
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 アメーバー組織論
 
 むかしから「事業は人なり」という。それを実証して見せたのはソニーだった。ソニーが急成長を遂げられたのも、井深、盛田の適切な指導で、環境の変化に即応できる流動性を常にもっていたからである。それに関連して、井深は次のようにいう。
「うちには組織なんてないんですよ。今日の組織は明日の組織でなく、明日の組織も明後日はどうなっているかわからない。だから組織づくりといえば、毎日が組織づくりかもしれない。いや毎日、会社そのものをつくっているようなものですよ」
 この話を最初に聞いたのは、評論家の田口憲一だった。著書『S社の秘密』(昭和三十七年、新潮社刊)の取材過程で耳にしたものだ。最初は田口もびっくりしたらしい。だが、社内の取材を続けているうちに、そのいわんとする意味がだんだんわかってきた。「組織はあるが、それにこだわって動脈硬化になるようなことはしない」ということがである。
 これをもっとわかりやすく解説してくれたのが、盛田のいう〈石垣論〉であった。その論旨は「お城の石垣は不揃いの石をうまく組み合わせて、はじめて丈夫なものができるといわれている。われわれは人材をうまくまとめ、石垣のようなシッカリした組織基盤をつくる努力をしなければならない。また、石垣を形成する一つの石がダメになったら、それにふさわしい石を探して埋める。それと同じように適材を求め補充してゆけばいい」というものだった。この話がマスコミを通じて世間に知れると「それはむかしからいわれている〈適材適所主義〉と同じじゃないか。そんなことはどこでも実行していますよ」と、反論する経営者や人事担当者が多かった。
 だが、ソニーの〈適材適所主義〉は、日本の会社で定着しているそれとは、だいぶ趣を異にしている。たとえばある仕事に対して、もし社内に適任者がいなければ、積極的に外部から求める。その辺はソニーの急成長時代を支えた人脈を見ればわかる。
 大賀現社長をはじめ、テープコーダの製造に貢献した多田正信、笠原功一、児玉武敏、戸沢圭三郎、北条司朗、販路開拓に苦労した倉橋正雄、仙台工場長の高崎晃昇、機械屋の茜部資躬、研究部門の基礎固めにつくした植村三良、中研の鳩山道夫、財務の吉井陛、トリニトロンカラーテレビの開発者の吉田進、VTR製造の森園正彦などは、いずれも中途入社組、拡大路線をとるため、必要欠くことのできない人材として首脳陣が積極的にスカウトした人たちだ。
 迎え入れた人材は一つのポストに定着させることは絶対にしなかった。仕事ができると見定めたら、どんどん未開拓の分野に投入し、新しい仕事をさせる。こんな調子だから組織はいやでも流動的になる。それがソニーの特長であり、強味でもあったわけだ。石垣の堅固さより、むしろアメーバーに見られる柔軟さをもった組織を、首脳陣はイメージしていたのではなかろうか。
 一見、荒っぽく見える人の使い方ができたのも、井深の技術に対する見通しなり、カンが冴えていたからともいえる。とくに、テープコーダ、トランジスタ、トランジスタラジオの成功で、井深は事業経営に対し、絶対の自信をもつようになっていた。それが外部への強気な姿勢になって現われた。井深は、その頃新聞記者によくこんな話をしている。
「これまで日本の多くの会社は『アメリカでやっているから、うちもこれをこしらえようではないか』、あるいは、『よその会社がこしらえたから、そのあとをついていこうではないか』と、大勢に押し流されながら、経済成長が行なわれてきた。そこには、経営者の意志なり、思想というものはあまり存在しなかった。ただ〈儲かるからやる〉ということで、日本の産業全体がここまできた。これに対し、われわれは『こういうことでこういうことをやろう』『こういうことで儲けたいから、こういうことをやる』あるいは『こういうマーケットができると思うから、そのマーケットにふさわしい商品をこしらえよう』と、ハッキリした目的をもって、会社を経営してきた。それが、他社とソニーのいちばん大きな違いである」
 これほどハッキリものをいう経営者は、当時、日本にはあまりいなかった。そのため、財界や同業他社の受けは、必ずしもよくなかった。「ひとりよがりが多すぎる」とか「協調性がない」というのである。
 しかし、井深や盛田は、そんな批判に耳を貸そうとしなかった。自分たちのやってきたこと、その経験のうえにたった意見、主張、理論だけに、撤回する気など毛頭持っていなかった。それどころか、自分たちの信念と違った意見には、毅然として論戦を挑むことさえあった。
 昭和三十三年夏、井深が、はじめて来日したアメリカの著名な経営学者、ピーター・F・ドラッカーを迎えた財界トップセミナーの会場で、技術革新のあり方をめぐって、論争を演じた話はあまりにも有名である。その辺の事情を、井深自身は次のように語る。
「私は、ああいう経営セミナーにはじめて出たのですが、話を聞いて、ドラッカー先生は技術革新の加速度をあまり考えていないのではないかという気がした。私にいわせると、どうやって時間を短縮するか、いかに加速度を大きくするかの方法に関心があったのだが、ドラッカー先生の場合は、ただ技術革新をやらなければならない、とその必要性と方法を説いているだけなんですね。そこで質問したわけです。つまり技術革新というのは当たり前の考え方で、問題は、それの時間を縮めるのにどういう考え方をしたらいいかということのほうが大事だと思ったんですよ」
 会場に居合わせた財界のトップ連中は、中小企業に毛の生えた程度の会社の経営者にすぎなかった井深の大胆な態度に、目を丸くして驚いたそうである。
 この話には、もう一つおまけがあった。昭和三十七年、軽井沢で開かれた三回目のセミナーでのできごとである。このときは、井深でなく、盛田が参加した。ドラッカーは「競争的世界にあって、いかに競争的であるべきか」「有能な経営者はいかにあるべきか」というテーマで基調講演を行なった。とくに強調したのは「競争相手をしのぐ優秀な人を集中的に使うこと」「ごちゃごちゃした製品的な混乱」を避けて、得意とする数種の製品に「集中的な力」を投入すること、一度決定した事業計画には「機会をとらえて一途に追求する」という点であった。
 講演終了後、質問に立った盛田を見て、ドラッカーは「ソニーについては、何もいうことがない」と、笑ったという。つまり自分が述べたことは、すべてソニーがやっていることだといおうとしたのだ。それ以後、井深、盛田とドラッカーの関係は「会うとお互いに腹蔵なく意見を出し合い、議論できる得がたい友人の一人」(盛田昭夫)という親密な間柄に発展していくのである。
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