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創造の人生66

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:第二の脱皮 昭和四十七年三月、ソニーに思いがけない朗報が舞い込んだ。エレクトロニクス関係の世界的な団体であるIEEE(電
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 第二の脱皮
 
 昭和四十七年三月、ソニーに思いがけない朗報が舞い込んだ。エレクトロニクス関係の世界的な団体であるIEEE(電子電気機械協会)から、井深にファウンダース賞が贈られたことである。同賞が設けられて一五人目の受賞だが、アメリカ国外に住む人でこの賞を受けたのは井深が最初であった。贈られた賞状には「民生用エレクトロニクスに固体部品を応用することに示されたすばらしいリーダーシップに対して」と、明記されてあった。テープコーダにはじまって、トランジスタ、トランジスタラジオ、マイクロテレビ、トリニトロンカラーテレビ、VTRの小型化と、一貫して独創的な商品開発に情熱を注ぎ、「安かろう、悪かろう」の代名詞だった〈メイド・イン・ジャパン〉という言葉の意味を「高品質で安価」へと変えることに貢献した井深の長年の苦労を、世界の電子技術関係者が認めてくれた。それだけに、井深の感慨もひとしお深かったに違いない。
 また、四十八年五月には、トリニトロンカラーテレビに、テレビ界のアカデミー賞ともいうべきアメリカテレビ芸術科学アカデミーから〈エミー賞〉を贈られた(五十一年五月には、Uマチックをベースに開発した単管式カラービデオカメラ〈トリニコン〉と、電子編集機つきポータブルVTRシステム、五十四年には放送用一インチVTR〈BVH〉シリーズも同じようにエミー賞を受賞している)。
 しかし、この前後からソニーの急成長にかげりが見えてきた。つまり、同業他社の追い上げが年を追うごとにきびしくなり、技術的にも、経営的にも、ほとんど差のない横並びの時代に突入したというわけだ。
 このことは、盛田も十分承知していた。だからこそ、海外を拠点に幅の広い〈多角化戦略〉を積極的に展開していたといえる。国内での無益な競争を避け、海外で独自のマーケットを拡げ、世界企業の名に恥じない強固な経営基盤を築く、それが盛田の悲願であり、基本的な経営戦略であった。
 それは、盛田が社長に就任してからのソニーの動きを見れば、よくわかる。たとえば、前述のサンディエゴ工場(四十七年八月稼働開始)の建設を決めると、岩間和夫専務(当時)を、ソニー・アメリカの社長に送り込んだ。四十七年六月には、製品計画、広告、デザインの三部長を兼務していた大賀典雄をCBS・ソニーの社長(ソニー取締役と兼務)に登用した。四十八年にはサンディエゴ工場の敷地内にブラウン管工場(四十九年八月稼働開始)の建設に着手、さらにこの年には、イギリス・ウェールズのブリジェンドにカラーテレビ工場(四十九年六月稼働)の建設を発表するなど積極的な姿勢を見せている。
 かと思うと、四十七年五月には、アメリカの代表紙である『ニューヨーク・タイムズ』『ウォールストリート・ジャーナル』『シカゴ・トリビュン』『ロスアンゼルス・タイムズ』に大きなキャンペーン広告を出した。その大見出しには「日本はアメリカにとって非常に魅力のある市場です」とあり、サブタイトルに「日本市場向けの商品をおもちでしたらソニーが日本への輸出を手伝います」と書かれてあった。
 この広告の反響は大きかった。一五〇〇件もの問い合わせがソニー・アメリカに殺到した。ドルの価値が下落し、貿易収支の赤字は増えこそすれ、減ることはない。景気はいっこうに回復の兆しさえ見えない。その苛立ちが〈高品質で安値〉の日本製品に対する一連のいやがらせ、対日不信を生む原因になっていた。そんな時期だっただけに、アメリカの企業家は、このキャンペーン広告に注目したわけだ。
「ソニーはすばらしいテープレコーダやカラーテレビのメーカーとして著名な存在だったが、その広告でわれわれはソニーの違う一面を知った。アメリカのビジネス社会全体に『ソニーは自社の製品を売るだけでなく、われわれのよきパートナーである』ことを教えてくれたことだ。これはアメリカ政府に対しても、ソニーという会社に好感を抱かせる方向に作用した。あの広告は一つのロビーイング(院外活動)としても大成功だった。ソニーとワシントン政府との関係は、あれ以来きわめて良好になっている」
 これは、モルガン・ギャランティのルクラン副頭取の談話だが、そういう意味で盛田のとった経営戦略は絶妙のタイミングだったといえる(その後、ソニーはヨーロッパの新聞にも同様の広告を出し、好感をもって迎えられた。またそのために新たに、ソニー・トレーディングという会社まで設立した)。
 この一連の経営戦略のなかで、もう一つ見逃せないことがあった。盛田が、岩間、大賀を後継者として本格的に育てることをひそかに考えはじめたことである。
 盛田は、かつて副社長時代、社内の管理者講習の席で、ある幹部から「将来、ソニーをどういう会社にする考えか」と、聞かれたことがあった。そのとき盛田は、急に表情を改め「いつの間にか、うちは、世界市場で日本を代表する企業になってしまった。それだけに、もし失敗するようなことがあれば、日本の技術全体の真価が問われるだろう。その責任が、いまや日増しに重く感じられ、つらいと思うことがある」と、しみじみ述懐したそうだ。
 その思いは、社長に就任しても、脳裏から消えなかった。とくに七〇年代は「激動の年」といわれたように、次々に予期しない大問題が起きている。そんなきびしい環境のもとで、常に創造的な製品を開発し続けることは容易なわざではない。またそれを永遠に指向し、可能にする集団をつくりあげることはよりむずかしい。技術の壁もあるし、人材にも、資金にも限りがあるからだ。しかし、その障害を乗り越え、井深の掲げた創業のポリシーを守り、育ててゆくことが、盛田に課せられた最大の使命である。そのためにも、次代を託せる人材育成が急務だった。
 技術担当の岩間をソニー・アメリカの社長に、大賀をCBS・ソニーの社長にそれぞれ据えたのも、その一環であった。つまり、未知の分野でマネジメントのきびしさを学んでもらう。そして彼等がその修羅場をいかに切り抜け、成果を上げるかによってその力量を判断する。そんな苛酷ともいえる構想を、盛田は立てたのである。
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