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ぐうたら人間学12

时间: 2020-10-31    进入日语论坛
核心提示:信長のこと そのお嬢さんに会った翌日、同じホテルのバーで夜、司馬遼太郎氏と一緒に飲んだ。司馬さんの話はまことに面白く、聞
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 信長のこと
 
 そのお嬢さんに会った翌日、同じホテルのバーで夜、司馬遼太郎氏と一緒に飲んだ。司馬さんの話はまことに面白く、聞くものをして飽かしめない。私はそのお嬢さんの京都人についての話をすると司馬さんはこんな話をしてくれた。
 織田信長が三好一族を亡ぼした時、三好家のコック長ともいうべき男がつかまえられた。信長は早速、このコック長、辻本某の首をはねようとしたが、とめる者あって、料理をこしらえさせ、それがマズければ殺されては如何でしょうかと忠告された。一命をとりとめた辻本某は早速、膳をこしらえたが、信長は彼のつくった京都風のウス味がわからず、
「殺してしまえ」
 と怒鳴った。
「もう一度、こしらえさせて、くださりませ」
 と辻本某は言った。そして今度は美濃に育った者にむいた強い味で料理をこしらえると、田舎者の信長は舌つづみをうち、うまい、うまいと感心したと言う。
 さて、話はそれからである。一命とりとめた辻本某はその後、同僚にそっと語って言うには、あの時、俺は信長にはうす味などわかるまいと思って、わざと試してみせたのだ。そしてそのあと、これまたわざと田舎者の好きそうな濃い味にしてやったのだと。
 司馬さんはこの話を京都の友人に語ったところ、その友人はこう言ったという。
「本当の京都人なら、それだけでは、すまさないね。本当の京都人なら、信長が濃い味の料理をうまいと言った時、わざと感心してみせて、なるほど、おかげさんで今日は料理道を教えてもらいましたとお世辞を言うのさ」
 京都の人はこわいとよく言われるのはこういうことだろう。かつて水上勉氏につれられて祇園のお茶屋に行った時、あるエラい人の掛軸がかかっていた。そのエラい人の掛軸の字はどうみても上手とは思えなかったので、私がこんなもの、なぜ、かけているのかなと呟くと、勉さんはそれが京都やがなと笑った。ながいながい歴史、権力者が入れかわりたちかわり地方からこの町にやってくる。京都の人はそのエラい人のいる間、心のなかでセセラ笑いながら頭をさげる。エラい人が次のエラい人に代ると、また心中、セセラ笑いながら新しいお方に頭をさげる。この掛軸はそれを示していると、水上勉氏は教えてくれた。
 司馬さんの織田信長と料理人辻本某の話をホテルのバーで聞きながら、私はふとこの掛軸のことを思いだした。
 私は信長のことが決して嫌いではない。辻本某には心中、馬鹿にされたが、彼こそ当時の近代主義者だと思っている。武田の騎馬隊にたいして鉄砲を使って戦うというその後の合戦戦術の方法を考えついたのも信長だし、本願寺と戦った時、毛利水軍にたいして日本最初の鉄甲船を作ってこれを撃破したのも信長である。
 私はかつて必要あって、信長の頃に日本にやってきた南蛮宣教師の通信文をかなり読んだが、宣教師たちは秀吉や家康よりもはるかに信長を(彼等の功利的な意味もあるが)激賞している。
 信長が生れて始めて黒人を見たエピソードなど、はなはだ愉快である。
 信長が京都にいる時、宣教師が謁見に出かけたが、その時、この宣教師の従者に一人の黒人がまじっていた。(おそらく日本で最初に来た黒人であろう)
 その黒人を見た信長は非常に驚いたらしい。『信長記』にも真黒な牛のようだと書いてある。信長は家人に命じてこれを洗わせたが、洗って落ちる筈がない。珍しがった彼は宣教師に命じてこれをもらいうけた。
 この黒人は後に信長の息子、信忠にあずけられ本能寺の変の時、明智光秀に捉えられたが追放され、行方をくらましてしまった。
 
 日本で一番はじめに黒人の来た模様は前に書いた通りだが、日本で一番はじめに眼鏡をかけた人間が来たのも織田信長の時で、その人間も宣教師だった。
 その時、信長は岐阜にいたのだが、その彼に謁見すべく眼鏡をかけた宣教師がその地に赴くと、さあ、びっくりした日本人たちは、
「四つ眼がきた」
 四つ眼が来たと近隣近在から集まり、その宿舎の前は押すな押すなの人だかりだったという。傑作なのは彼等がこうして待ちかまえていると宿舎から出てきたのは宣教師の従者の一人で片眼の修道士だったので、見物人たちはガッカリしたという話だ。
 日本で一番はじめに象が来たのはカンボジア国王が九州の大友家に送った時だが、この象はすぐ死んだ。二番目に送られてきたのは秀吉の頃でこれはマニラの使節が連れてきたもので、大坂城で秀吉は秀頼の手をひいて象を見たという。この象は桃をもらうと足を折って挨拶する真似をしたので、秀吉はひどく感心したそうだ。
 日本で一番はじめに鉄砲がきた場所は種子島だということはよく聞くが、あれは出鱈目で、種子島にもたらされる前に、平戸の松浦家に南蛮商船が見せている。
 ところで正月、京都で司馬遼太郎氏と話をしていた時、司馬さんは「信長の家は、今でいえば地方の鉄工所の経営者みたいなものです」
 と言われたのは面白かった。
 尾張の小鉄工所ぐらいの経営者が、今川といういわば静岡県の財閥を相手にケンコン、イッテキの勝負をしたというわけか。
 私は二年ほど前、信長がその頃いた、あの清洲の城と桶狭間のあとをたずねたが、率直に言ってガッカリした。信長が舞をまって出陣した清洲城のあとはゴミだらけの猫の額のような小公園になっているだけだし、桶狭間のあとも周りにぎっしり住宅がならび、烈しかったあの雨中の戦いを偲ぶこともできない。
 信長という人は宣教師の書くものを見ると家臣に非常に怖れられていたようで、近習たちはその顔色の動き一つでかけまわっていたという。信長はある日、外出から戻ると、侍女たちが泊りがけで寺まいりをしていたので彼女たちを処刑したし、部屋に塵が落ちていたというだけでその係の女を殺している。二条城の工事をしている信長を宣教師がたずねた時、彼等の眼の前で、自分の侍女の一人の被衣にさわった人夫の首をはねている。
「姉ちゃん、いい体しているなア」などと言おうものなら、たちまち殺されるわけだ。私など信長の家来なら、もう初日で殺されていたろう。
 そんな信長が実に珍しく人間味ある手紙を書いている。それは何と、秀吉が妻のねね[#「ねね」に傍点]と夫婦喧嘩をした時に、ねね[#「ねね」に傍点]を慰めた手紙である。
「仰せのごとく、こんどは、このじへ初めて越し、見参《げざん》に入り、祝着《しゆうじやく》に候。殊に土産色々うつくしさ、中々目にもあまり筆にも尽しがたく候(略)中んずく、それの眉目《みめ》ぶり、かたちまで、いつぞや見まいらせ候折ふしよりは、十のもの女ほども見あげ候、藤吉郎|連々《れんれん》不足の旨申すのよし、言語道断、曲事《くせごと》に候か。それさまほどのは、又|二《ふた》たび、かのはげ鼠(藤吉郎のこと)相もとめがたき間、これより以後は身持を陽快になし、いかにも、かみさまなりに、おもおもしく、悋気などに立ち入り候ては、然るべからず(略)」
 女の心理のツボをちゃんと心得た手紙で、へえ、信長がこんな手紙と、これを読んだ時、私はいささか、驚いたくらいだ。
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