けしからぬりん気あたまへ判をおし
上等の物は銀製、並みは鉄製で錠前つきの貞操帯は、中世のころ十字軍にしたがった騎士が使用した博物館ものかと思っていたら、たしか去年のさる週刊誌で、戦後貞操帯の製作に熱中し、すでに十数回、特許申請をしたという人物の存在を知って、びっくり仰天《ぎようてん》したものだ。愛し合っていても、裏切るつもりはなくても、とかく人間という動物のかなしさで、よろめくことがあるのだから、恨みっこなしに男子用と女子用を製作し、鍵を交換しておくというのなら、まだ話はわかる。だが、もっぱら女子専用の貞操帯を設計しているというのだから笑わせる。貞操というものは、男には不必要で、しかも女のアソコにだけあるものだ、と考えているのだろう。
まあ、これなどは特別な御仁《ごじん》であって、川柳という風流|滑稽《こつけい》文学を物にした日本の庶民は、そんな馬鹿げたことはしない。大正時代のことだと思うが、こんな話がある。
尾崎紅葉《おざきこうよう》か永井|荷風《かふう》のような、ふだん花街で|浅酌 低唱《せんしやくていしよう》するイキな江戸っ子と思っていただきたい。カミさんもソレ者《しや》あがりか、それに近い下町そだちで、ご亭主が着物を着かえて出かけるからといって、いちいち口に出してやきもちをやく人柄ではないのだが、そこはそれ女ごころ、ひょっとして出先で帯をとくことがあるかもしれぬ、と内心気が気でない。
そこで考えた末、出かけるご亭主の着替えを手伝う時、後からより添って襟《えり》を直しながら、当時のことだから小粒の十銭銀貨を長襦袢《ながじゆばん》と上着の間にすべりこませておくことにした。そうしておくと、出先で角帯をとけば、なにくわぬ顔でご帰館あそばしても、銀貨がなくなっているから、浮気がバレてとっちめられるという寸法である。
ところが、テキもさるものだ。それから何回目かの浅酌低唱のあと、めずらしく帯をとく仕儀となったら、十銭銀貨がころがり落ちた。その時はなんとも思わず、ここちよく夢を結んで、さて起きる段になってフト気がついた。
——ガマ口から落ちたんでないとすると、さては女房が仕掛けたな。
そこであわてて銀貨をさがしたが、みつからない。妓《おんな》の手まえもあるのでガマ口から別の十銭銀貨をつまみ出して、われとわが背中へしのばせ、何くわぬ顔で車に乗った。さて、お召替えの段になって、銀貨が落ちたのを、そしらぬ顔でザマー見ろとばかり様子をうかがっていると、カミさんはあわてずさわがず銀貨をつまみあげ、しばらく吟味していたが、
——あなた、お風呂におはいんなさいまし。
といった。銀貨は同じ十銭銀貨でも、年号がちがっていたのである。
こんなしゃれたカケヒキは、イキでコウトウな家庭のはなし、ぐっと下がった庶民の夫婦はそんな生ぬるいことはしない。
——ちょいと、ちょいと、おまえさん、また寄合いかい。新《さら》の腹掛けなんぞしてさ、おかしいじゃないか。
——だから、ゆんべから口がすっぱくなるほど言ってるじゃねえか。なんだったらおめえ棟梁《とうりよう》のうちまでついてきねえ。
——棟梁のうちはわかってるよ。近ごろおまえさん、つきあいだのなんだのといって、まっつぐ帰ってきたためしはないじゃないか。今日はかんべんできないよ。サアお出し。
てんで、亭主のアレをむりやり出させ、封印代用の墨判を、すてっぺんにポンとおす、というのが冒頭の主題句である。
これでは急いで、うっかり汗もかけない。酔った勢いで浮気をしたあとで、できあいの印判を買っておしたりすると、私文書偽造の罪にとわれぬものでもない。まことに恐るべきカアチャン族である。
もちろん亭主がりん気をして、貞操帯を書く場合もあった。
どうもぞろっぺえで安心がならないというので、出かける女房のおヘソのま下に玄米という字を書いておいた。夜ふけに帰って来た女房のソコをまくって調べてみると、白米という字に変わっている。
——やいやい、こりゃあ一体どうしたわけだ。玄米が白米になってるじゃねえか。
と、亭主がいきり立つと、サテはあいつ、あわててまちがえやがったか、と女房はギョッとしたが、
——だっておまえ、搗屋《つきや》につかせりゃ、白米になろうじゃないか。
と、なんとなく筋の通った言いわけをしたそうだ。
小田巻《おだまき》をたぐり内儀は下女が部屋
大和《やまと》の国に住む活玉依《いくたまより》姫という美しい娘のところへ、夜な夜な美青年が通って来ていたが、どうしても素姓《すじよう》をあかさないので、ある夜麻糸を巻いた小田巻の糸のはしを青年の衣の裾へとめておいた。あくる朝糸をたぐって行くと、それは吉野山の神社にとどまっていたので、青年はそこの神さまの大物主命《おおものぬしのみこと》であることがわかった、という三輪山《みわやま》伝説が『古事記』に見える。それが後に謡曲『三輪』となり、さらに転じて杉酒屋のお三輪でおなじみの浄瑠璃《じようるり》『妹背山婦女庭訓《いもせやまおんなていきん》』となり、さらにまた転じて、この主題句となったわけだ。
どうも亭主の様子がおかしい。わたしの寝息をうかがってははい出して行く、というので、お三輪の故知にならい、亭主の寝巻の裾につけておいた糸をたぐり、夜ばいの先をつきとめた、という歌舞伎仕立ての働きである。