花嫁のよがるはできたことでなし
さて、はなしはいよいよ佳境にはいってきた。「できたことでなし」というのは、よくやったとはいいかねる、いただきかねる、という意味だ。試験結婚をへたのちの花嫁ならばともかく、仲人結婚の花嫁が、初夜から嬌声《きようせい》を発してはうまくないというのだが、めっきり懇切ていねいになった現代の初夜教育書でも、ここまでは行きとどいていないようだ。
ところで、なぜ嬌声を発してはいけないのかといえば、今でも日本ではそうだが、花嫁たるものは、当時のコトバでいえば生娘《きむすめ》、今のコトバでいえば処女でなければならない、という不文律があったからだ。花聟も童貞でなければ、というのならわからぬはなしでもないが、一方的なんだから、手前勝手なはなしである。そういう一方的な処女性の要求が強調されはじめたのは、十六世紀以後江戸時代にはいってからのことだ。貞女両夫にまみえず、という儒教道徳のせいもあるが、なによりも身分や財産を長男が世襲するという、この時代の長子相続制が要求したのである。身分や財産をゆずるべき息子を、ほかで仕込まれたのではかなわん、という考えが、血の純潔をもとめ、処女性尊重となったんであって、もっぱらヘソから下のソレなんだから、お寒いはなしである。
もっとも近ごろでは処女の値打ちも下落したと見えて、このあいだ新宿《しんじゆく》を歩いていたら、「純処女喫茶」という看板に出っくわした。つまりスフ入りに対して、純綿という意味なんだろう。ペッティングまでは許すというスフ入りの半処女に対して、バリバリの純処女というわけだ。
——わたし今晩、まだ処女なのヨ。
というホステスもいる世の中だから、むりもない。しかし、恋愛結婚はみとめない上に、見合いという手順もはぶいてかつぎこまれ、ぜったいに純処女でなくてはという時代のことだから、花嫁たるもの、たとえ経験者であっても、その場にのぞんではカマトトたるべし、しからずんば疑われて離縁されますぞという、まことにコンセツテイネイな教訓をたれたのがこの句である。
花嫁の名にお初とはきついこと
世はあげて花嫁の処女性を要求するご時勢、とはいうものの、花嫁の名前までがお初とは、すこしどぎつすぎやしませんか、と、これまた、いたらぬくまなき庶民のおせっかいぶりである。
花嫁にめんぼくもなく外科をかけ
この花嫁は純綿も純綿、バリバリの純綿であったと見える。また、花聟の方も、社会的経験にとぼしい、特攻精神にもえた青年であったとみえる。ついに激突、もみにもんだあげく、負傷する方はおおむね警棒を持たない方である。流血りんり、めんぼくないが外科にかけたというしだいである。
これは仲人の手ぬかりである。たぶん未経験なはずの若い男女を結合するというゲンシュクなる役割をはたす以上、初夜の心得ぐらいは教えておくべきである。
この春、わたしの友人が、ちょうどこの句のような童貞と処女の仲人をして、新婚旅行に送りだしたまではよかったのだが、あくる朝、旅先から電報がきた。
ウマクイカヌ イカガ スベキヤ
今どきの若者だから、と、たかをくくって教えておかなかったのが、友人の手ぬかりだったのである。外科にかかるどころか、その手前で文字どおり戸まどっている様子なので、いろいろ頭をひねって、折り返し電報を打った。
エンリョナク ヒラケ ゴマ
他人が見てもおかしくないように、あけにくい戸をあけるアラビアンナイトのアリババの呪文《じゆもん》を借用したわけだ。すると翌日、また電報がきた。
カンシャニタエズ イサイフミ
友人の想像どおり、新郎は土地不案内でまごつくし、新婦は羞恥心《しゆうちしん》で堅くなって、受入れ態勢が整わなかったらしい。そこでまた返電していわく、
セイコウヲシュクス
本当はセイコウノセイコウヲシュクスと打ちたかったんだがネ、と友人は楽しそうであった。
湯がしみてにがい顔する里がえり
江戸時代には新婚旅行というものがなかった。これは明治も中期以後の西洋的風俗である。そのかわりというわけではないが、「里帰り」という行事があった。新婦が結婚後、三日目または五日目に実家へ近況報告に帰る儀式だ。外科にまでかかった愛の闘士としては、さぞ湯がしみることであろう、とかんぐったわけだ。しかし、顔はしかめていても、気分はかならずしもそうではない。にがくて甘いよ、うーん、というところだ。
里帰り夫びいきにもう談じ
という句が、その証拠だ。