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日本人の笑い55

时间: 2018-11-04    进入日语论坛
核心提示:  あとねだり この盛遠の文覚上人と同時代、同じく北面の武士出身で、同じように出家した歌僧|西行《さいぎよう》がいる。こ
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   あとねだり
 
 
 この盛遠の文覚上人と同時代、同じく北面の武士出身で、同じように出家した歌僧|西行《さいぎよう》がいる。この軟派の西行を文覚が、
 ——歌なんぞ作ってにやけたやつだ。出会ったらぶんなぐってやる。
と、かねがね弟子に高言していた。ところがある時、西行がたずねてくると、案に相違で大いに歓待して帰したので、弟子どもが不審がると、西行こそ文覚を打たんずるもの、といったという逸話が伝わっているから、歌よみの西行法師は軟派にはちがいないが、先祖はムカデ退治の伝説で有名な英雄、俵藤太|秀郷《ひでさと》という、威かついおじんだったのである。
 この西行が佐藤兵衛憲清《さとうひようえのりきよ》といった時分、恋人にまたの逢瀬《おうせ》をねだったところ、阿漕《あこぎ》、阿漕といわれたという話は、謡曲の『阿漕』に見える。阿漕ヶ浦は三重県津市の海浜で、伊勢神宮に供える神饌《しんせん》の漁場だったので殺生禁断。それを犯してたびたび魚を得た漁夫が処刑されたという伝説による。落語の『西行』はこれを仕立てなおしたものだ。
 憲清が自分をしたっていることを知られた染殿《そめどの》院の后《きさき》が、あとにも先にも一度きりのお情をたまわった。別れぎわに憲清が袖をひいてまたのデートをねだると、后は、
 ——憲清、それは阿漕じゃ。
といって立ってしまわれた。「逢うことのあこぎが浦に引く網の度《たび》かさならば人も知りなん」という歌の文句で、度かさなれば人目につく、欲をかきなさんな、という意味なのだが、憲清は未熟でそれがわからない。おおいに発奮して出家し、「西へ行くべき西行が、はじめて東《あずま》へくだる時」と、寄席ではたいてい話をここで打ち切ることになっている。
 西行が阿漕の意味をたずねたずねて東海道を下っていると、
 ——なんとまあ、アコギな野郎だんべえ。
と馬子が馬をしかっているので、西行びっくりしてわけをきくと、
 ——はあ、この野郎はさきの宿《しゆく》で腹一ぱい豆をくわせただに、もうはやあとねだりをするだから、アコギと申しましただ。
 それで西行はわが身をかえりみて釈然としたという、おそまつの一席である。はからずもこの章は、坊さんオンパレードとなったが、なぜ川柳で坊さんを取りあげるのかというと、当然の欲望を罪悪視し、そのくせ人一倍なやんで、歯をくいしばっているのが、あわれにもまたおかしいからである。
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