小学校時代の夏休みが、どんなふうなものであったか、考えてみても、なかなかはっきりしない。
夏がちかづくと、おやつがだんだん変ってくる。蚕豆《そらまめ》の塩ゆでが、目ざるに山盛りになって出たりする。ところてんや蜜豆が出たりする。昭和のはじめごろ、東京の山の手の中流家庭の食生活は、おやつも含めて、今からみるとずいぶん質素なものだった、という気がする。
ところてんや蜜豆は、その少し前までは、路傍の腰掛茶屋などでたべる、あまり上等とはいいかねる食物であったようだ。これをおやつに採用したのは、若かった母の新しい行き方であった。母がそれを作って出すと、老人たちが、「へええ、蜜豆かい」と、がっかりしたような、やや軽蔑的な歎声をいっせいにもらしたのを、私はおぼえている。
アイスクリームは、一と夏に一度か二度、自家製造をやる。ドライアイスのまだない時代だから、店売りのを買ってくるわけにはいかないのである。氷のぶっかきに塩を入れた桶の中へ、材料一式を仕込んだブリキの茶筒をつっこんで、ぐるぐるまわすと、アイスクリームができる。母がこしらえてくれるのだが、だんだん、面倒くさくなったらしく、のちにはやめてしまった。
近所の蕎麦屋が、夏になると氷水屋を兼ねた。アイスクリームより手取り早く、甘ったるくないというので、老人たちにも好評であり、よく出前でとってたべたものだ。氷あずきは腹下しのおそれありとして、子供には厳禁であったが、幸い私たちは、たべたあとで、真赤になった舌を見せ合っておもしろがる氷いちごを好んだから、さして痛痒を感じなかった。
鵠沼《くげぬま》に祖母の家があったので、夏休みになると毎年出かけた。当時の海水浴場は、じつに殺風景で、脱衣場を兼ねただだっぴろい茶店や、貸し浮き袋屋が、二、三軒あるだけの、ただの砂浜であった。近代的な遊戯設備などは何もないが、それでも、明るい色のビーチ・パラソルの群れは、子供心にも花やかな興奮を感じさせた。
海への行き帰りには、いなごやばったを捕えたり、蟹を取ったりする。
釣りに出かける。ごはんつぶで、ふなやなまずが、おもしろいように釣れる。
せみやとんぼも、たまには取る。なぜたまかというと、そんなものは東京にもうじゃうじゃいるからである。
じっさい、そのころの東京の夏は、虫の天国で、とんぼや、せみや、ちょうや、かまきりや、てんとう虫の類いが、庭や原っぱにあふれていたものだ。そんなふうだったから、私たちにとって夏休みは、十分堪能できる、けっして飽きることのない自由な時間だった。そのうえに、グリム童話集とか、八幡様の夏祭りの縁日とか、町内の空地でやる活動写真大会とか、縁側での花火とかいうものがあって、私たちは夏休みの終るころ、あわてて宿題の日記やノートをひろげたものだ。この点だけは、今の子供たちと、まったく変らない。
海で溺れかけたことがある。海水が耳にはいって中耳炎になり、手術をしたことがある。高い松の木にのぼり、あやうく足を踏みはずしかけたことがある。そして丈夫でない私は、夏になるとほとんど毎年のように、寝冷えをして熱を出した。それでも母は、水泳も、木登りも禁じなかった。こういうやり方は、母が明治時代の軍人の娘であったことも、いくらか関係があるだろう。男の子は強く育てねばならぬという考えがあっただろう。同時にこれは一種の放任主義であり、大正時代のあたらしい自由主義的教育のもたらしたあたらしい子供のしつけ方でもあったような気がしている。
——一九六五年八月 家庭の教育——