文学作品中に登場する女性のなかから、好きな女性をえらべと言われると、ちょっと、まごつく。「好き」にもいろいろあって、一概には言えないからである。
たとえば、バーナード・ショーの書いたジャンヌ・ダークや、ジャン・アヌイの書いたアンチゴーヌは、実に魅力のある少女で、私は大好きである。
彼女たちは、どんな現実の少女よりも、生き生きとして見える。ことに舞台の上で、血肉をそなえた現実の女優によって演じられている時には、文字通り生きて見えるだろう。
しかし私は、もしこんな少女たちに現実の人生でお目にかかったら、敬して遠ざけたいと思っている。向うでも、ごめんだと言うにちがいない。私は彼女たちの強い「自我」と付き合うのは、まっぴらごめんである。殉教や死刑のまきぞえにならないまでも、へとへとにくたびれることは確実である。
自我のない女性は、論外だが、自我のかたまりのような女性も、困りものである。何事によらず、自分自身の考えをもつということは、結構なことだが、すべての物事を自分を中心にしてしか考えられない女性、世界が自分を中心にして廻っていなくては気のすまない女性は、困りものである。
そういう現実にいたら困りものの女性、厄介者の女性、あまりつき合いたくない女性を主人公にした小説や劇の傑作はたくさんあって、彼女らは、実にみごとに、魅力的に生きているから、私たちは何も現実の世界でまで、彼女らと暮す必要はないのである。
それとは反対に、こういう女性が現実にいたら、さぞ面白いだろう、さぞかわいいだろう、すばらしいだろうと思われる女性も、たくさんいて、こちらの方も、私は「好き」である。作中人物と現実の人間とは、別の次元に生きているのだが、その次元のちがいが消えてなくなってしまったらどんなにいいだろうと思わせるのは、作者の筆の力にちがいない。
そういう大勢の「好き」な女性の中から、一人だけえらぶのは、難事業だが、強いてと言われれば、ジャン・ジロドゥーの同名の戯曲の女主人公、オンディーヌを挙げる。
オンディーヌは、人間の女ではない。オンドはフランス語の「波」で、オンディーヌはさしあたり「波おんな」というところであろうが、この「波おんな」は「雪おんな」のような陰性の女性ではなくもっとはつらつとしたかわいらしい存在である。
オンディーヌは、騎士ハンスに一目ぼれする。ハンスもオンディーヌに心を動かす。しかし、オンディーヌのすむ湖には掟《おきて》がある。人間を愛してはならぬ。人間は移り気なものであり、人間に欺かれることは湖の住人たちの恥なのだ。オンディーヌは掟に背いて男を追い、そして、欺かれる。湖の住人を欺いた人間は殺される定めである。オンディーヌはハンスを救おうとして、自分が先に心変りしたのだと嘘をつく。そして罰として人間の世界に関するすべての記憶を消され湖へ引戻されてゆく。
一種の童話である。しかし、このオンディーヌはまったく私を魅了する。かわいらしく、いたずらで、ナイーヴで、すばらしい想像力と古風なまごころの持主であり、野蛮なくせに利口である。嘘が死ぬほどきらいで、愛する男が死ぬかも知れない時、彼女ははじめて嘘をつく。こんな女性も、現実にいたら、つき合いにくいかも知れない。一緒に生活したらへとへとにくたびれるかも知れないが、どうも、その苦労をまっぴらごめんとは言いきれぬ——どころかその苦労もたのしいと思わせるような、ふしぎな明るさを彼女はもっている。と言っても先ごろ流行した「妖精型」の女性などを、連想しないで頂きたい。オンディーヌは、恋人と妻と娼婦と母とを、一身に兼ねたようなところがある。ぜひ上演したい芝居の一つである。
——一九六四年九月 婦人文化新聞——