フランスの五月革命が一挙に大爆発を起した翌十四日、束の間の平穏に乗じて、私はオルリー空港からロンドンへ飛んだ。
今夜は特別公演ですよと念を押されて、オールド・ヴィックへかけつけると、玄関は早くもブラック・タイとイヴニングのはんらんであった。コートを脱ぐ客にぶつかり、見ると、ローレンス・オリヴィエである。失礼。客ではなかった。この劇場の主である。
プログラムを見ると、今夜は、この国立劇場オールド・ヴィック、前名ロイヤル・コバーグ劇場が、一八一八年五月十四日に開場して以来、ちょうど百五十年目に当っている。
幕が上る。素顔のジョン・ギルグッドが、詩人C・デイ・ルイスの頌《しよう》を朗読する。
この舞台は世界、われらの心の世界、そこに
ロザリンドはほほえみ、イアゴウは憎む、
リアは咆哮《ほうこう》し、マルヴォリオはめかしこむ。
二十世紀最高のハムレット役者、サー・ジョンの格調の高い朗読が終るとすぐ芝居が始まる。祝詞、あいさつの類いは一つもない。
シェイクスピアの「お気に召すまま」を中堅のクリフォード・ウィリアムズが演出する。
女の役を演じるのが、すべて若い男優である。演出家は、少年俳優が女性役を演じるという昔の習慣を復活させる気はないと断わった上、ヤン・コットの論文から刺激を受けたと述べている。
この、今評判のシェイクスピア学者は、シェイクスピアがプラトンの哲学にかなり精通していたという見方をしており、また、ルネサンス期の人体の美の、理想の一形態が、少年のような女性あるいは女性のような少年であったことを、ヴェロッキオの彫刻やボッティチェリの絵を例証にあげて説明している。そこから、シェイクスピア劇における同性愛、男装と女装、ひいてはエロティシズムの問題に、新鮮なアプローチを試みているのだ。
気鋭の装置家ラルフ・コルタイの、プラスチック製の冷たい透明なアーデンの森に、ビニールや金属を多用した現代的あるいは超現代的衣裳の人物たち——ミニスカートやらパンタロンやら、流行のサングラスをかけた宇宙人のような人物までが現われて、快いリズムで動き、語り、踊り、大団円の背景に投影された明るいオレンジと赤との縞模様が、サイケデリック風に動き出して、幕がおりるまで、舞台には、現代的感覚の波動が絶えず流れていた。まかりまちがえば、新奇をてらった見世物に堕しかねない危険な行き方だが、俳優たちの演技には節度があり、みごとに統一された演出であった。
百五十年祭を記念して、国立劇場オールド・ヴィックは、単に現代服上演という域を脱したこの二十世紀のシェイクスピア劇を、その演劇的冒険を、誇示したかに見えた。少なくとも、私の目にはそう映ったのである。
が、これはいささか早計であった。この程度の冒険は、オールド・ヴィックでは、一向に珍しくないのだ。
タイロン・ガスリー演出の「タルチュフ」は、これまで脇役とされていた市民オルゴンを、主役にしていた。
オリヴィエ演出の「三人姉妹」は、屋内屋外の両場面とも鋼鉄のテープを並べた巨大なカーテンを使用し、チェーホフ劇につきものの写実的な装置に代る、密度の高い空間をつくりあげていた。三人姉妹は能の橋がかりの出のように、一筋の光に導かれて、闇の中から登場した。
そしてピーター・ブルック演出のセネカ作「エディプス王」は、冒険という点では、オールド・ヴィックの全演目中、最左翼に位する作品であった。
舞台中央に、自由に回転する大きな黄金色の立方体がある。装置はそれだけである。
全登場人物はほとんど黒色に見えるシャツとズボンを着用しているが、その色合には微妙なニュアンスがあって、完全に同じ服装をした人物は一人もいない。
エディプス王をギルグッドが演じる。黒シャツ、黒ズボン。素顔のままだ。
舞台の左右前面と客席に、合唱隊がいる。客席の合唱隊は、二階、三階、四階を支える十数本の柱に、一人ずつ、革帯に身を托し、舞台に呼びかける。せりふばかりではない。言葉にならない溜息。呪文めいた記号のような音をつぎつぎに、ある時は一斉に舞台へ送る。
しぐさは極度に様式化されている。荘重な儀式を見るようである。
そして、エディプス王の悲劇が終るや、とてつもない饗宴が始まる。舞台中央にすえられる巨大な黄金の男根。黄金の衣裳に黄金のマスクをつけた青年たちが、ジャズを演奏しながら客席を練り歩き、ゴーゴーを踊る。
精神と肉体との未分の状態とでも呼ぶべきもの、そこから言葉や身振りが生れてくるどろどろした混沌を、この卓抜な演出家は数年来追い求めているようであった。
オールド・ヴィックは、一口に言って、保存のための劇場ではなく、創造のための劇場なのだ。われわれの国立劇場や、コメディー・フランセーズに見られる保守の風は、ここにはない。オリヴィエ主演のストリンドベルイ作「死の舞踏」のような、折目正しい近代劇が、むしろ古色を帯びて見えるほどで、これほど進取の気に富んだ国立劇場はざらにはあるまいと思われた。国立劇場が、どんな実験的劇場よりも実験的な芝居を上演しているのである。詩人ルイスは、オールド・ヴィックにつぎのように呼びかけて、その頌を結んでいる。
きみは世界中の劇を見せてくれる、古い、新しい、今日の劇を——
人間の高さと深さと、いつの日にか私たちが
かくありたいと熱望する姿とを。
——一九六八年八月 朝日新聞——