夜中の十二時、ヴァヴァンの駅で地下鉄を降り、階段を昇ると、目の前がカッフェ「ロトンド」である。
往来に面した籐椅子に腰をおろし、指を挙げると、給仕がやって来る。
「いらっしゃい。今夜は、どうでした、芝居?」
「まあまあ、だな」
「ビールですか?」
「ええ、いつもの通り」
「ドミをね」
ビールが葡萄酒になることもある。クロック・ムッシウの一皿が、付け加えられることもある。隣の卓の客も、日によってさまざまである。賑やかに談笑するアリアンス・フランセーズの学生たち、足の短い犬を連れたつつましい老夫婦、気むずかしげにパイプをくゆらせる髯の中年男、無限抱擁とはこのことかと思われるほどいつまでも顔を寄せ合っている若い二人……
酒の運ばれて来るのを待ちながら、私は今見て来たばかりの芝居のプログラムをひろげ、写真や配役表を眺めたり、記事を読んだりする。
パリ到着以来、およそ一カ月の間に、いつとはなしに出来上った、これが私の日課のひとつで、後は、歩いて五分とはかからぬホテルの二階の部屋へ戻って、手紙を書くか、今夜の芝居の舞台装置や衣裳を、心覚えのクレヨン画にするかして、寝てしまうだけである。
その夜も、私はロトンドの椅子にすわって、ビールを飲みながら、芝居のプログラムを眺めていた。私の気分は妙に沈んでいた。
今夜の芝居も、いくらかの満足と、いくらかの不満足とを、与えてくれた。
一体これはどういうことだ、と私は思案した。一と月近くパリにいて、完全満足の芝居に一向にぶつからないとは、どうしたわけか。
唯一の例外が、到着早々に見たイタリア人劇団によるゴルドニの喜劇である。あれだけには、文句なしの超完全満足を味わった。
初めが良すぎたせいか、後が、どうも冴えない。フランスには、三カ月余り滞在する予定だが、この調子では先が思いやられる。
むろん、すぐれた才能の持主もいる。創意ゆたかなジャン・ルイ・バロー、才気煥発のジャック・シャロン。滋味掬《きく》すべきレイモン・ルーローらの演出には、学ぶべきものが大いにあった。気鋭の青年演出家ヴィクトル・ガルシアの仕事などからも、刺激を受けたことは確かである。装置家にもパースのような清新な感覚と技術の持主がいる。
役者とて、同様である。洒脱、重厚、理知的、情熱的、軽妙、緻密《ちみつ》と、さまざまな藝風、さまざまなタイプの練達の役者が少なからずいて、それぞれみごとな演技を見せてくれた。加えて、女優の美しいことは、一と通りではない。可憐あり、妖艶あり、清楚あり、神秘的ありで、これまた、刺激を受けたことは間違いない。
だが、どういうわけか、渾然《こんぜん》とした演劇的感銘が得られない。圧倒する魅力が、舞台から来ない。有無を言わせぬ劇的律動の高まりが感じられない。おもしろくないのだ。
昔からフランスの芝居に関心を持って来た私には、これははなはだ具合の悪い事態であった。
「フランス演劇の精髄は、言葉にあるという。正にその通り、役者たちは喋り、喋り、喋り——ただ喋るだけである」
「フランス演劇の美を形造る重要な要素は、装置や衣裳の色と形の洗練であるという。正にその通り、舞台はさながら、ギャラリーである。ただし、ドラマは不在である」
仮に、そんな皮肉な悪口を言うものが現われたとしたら、私は何と答えればいいのか。どの劇場へ行って、何を見給えと言えばよいのか。
いや、そもそも私自身、これから先、何を見たらよいのか。
一体、これは今シーズンだけの現象であろうか、たまたま、演劇的不作の年にぶつかったのだとすれば、まだしも諦めがつく。
だが、どうも、そうではなさそうである。何か、もっと由来する所の遠い、深いものが、フランスの芝居全体から、活気を奪っているように思われる。
私は沈みがちな気分のまま、ふと、その日が水曜日で、ロフィシエル・デ・スペクタークルの発売日に当っていることに気付いた。ロフィシエルは週刊のパリ案内誌で、芝居見物にはたいそう重宝なパンフレットである。
ロトンドの隣の本屋で、ロフィシエルを買って、ホテルへ引上げる。
ベッドの上でページを繰る。
映画案内欄に、ルイ・ジュヴェの「クノック」が出ている。私は眼を疑った。
ルイ・ジュヴェなしには、夜も日も明けぬ思いをした一時期が、私にはある。
初めてジュヴェを見たのは、ジャック・フェデエ監督の映画「女だけの都」であった。
脇役のジュヴェは従軍僧を演じていたが、その圧倒的な、戦慄的な印象は、二十数年後の今日でも、忘れ難い。シニカルで、滑稽で、無気味で、威厳があり、ジュヴェの破戒僧は、この秀抜な時代喜劇全体があたかも彼ひとりのために存在しているような印象を与えた。
私は映画館の暗がりの中で、映写幕の上に、ジュヴェの幻影を見ただけだが、この幻影は、どんな生身の俳優よりも強く私を打った。この幻の現実は、他のどんな現実の演技よりも実在的で強固だった。これは俳優の演技というものの到達し得る一つの極限を示しているように、私には思われた。
以来、私はジュヴェという熱病の患者になった。「女だけの都」を、「舞踏会の手帖」を、「北ホテル」を、「幻の馬車」を、「旅路の果て」を、彼の出演するあらゆる映画を繰返して見、彼のレコードを繰返して聴き、大学生にはひどく難解な、息の長い文章で書かれた彼の演劇論を、辞書を頼りに苦心して読んだ。
あらゆる映画の中で、ジュヴェは常に役の人間であり、同時に彼自身であった。巨大な体躯、長い腕と長い脚の緩やかな動き、見ているのは私なのに、逆に私が見られているような気持を起させる大きな眼。相手の役者たちを、演出者を、作者を、見物を、すべてを見通してしまうような不思議な眼。その冷たい、熱い眼差。大きな肉感的な唇から洩れる、抑揚の強いせりふ。やがてその錆《さ》びた声音が、低まり、呪文のように、果てしなく続く。
どの映画でも、ジュヴェは、落雷のように、突然出現した。彼が登場すると、映画は突然、別の劇になってしまうのだった。それはシナリオや演出の問題ではなく、明らかに、ジュヴェという非凡な一俳優の放射する人間的魅力が、他の何物にもまして強烈だったからである。彼の演じている人間の心奥のドラマの熱が、外枠の物語のドラマを溶かして、作者にさえ思いがけぬ恐ろしい合金を創り出してしまうのだった。
しばしば映画の最高の主役である広大な、あるいは奇怪な、あるいは美しい自然の風景さえも、ジュヴェが登場すると、徐々に身を退いて、甘んじて彼のための背景となるのだった。
そのジュヴェの舞台の、前期の最高傑作「クノック」が映画化されたという小さな記事を、私は、戦前の日本の映画雑誌の、海外ニュース欄で読んだ覚えがある。
二十数年を隔てて、パリで、その映画を見ることになろうとは、思っても見なかった。
パリは、いや、パリに限らずヨーロッパの都市は、一体に物保《も》ちがいいから、映画でも、昔の作品がたくさん見られる。
パリの芝居の冴えないのは、今年だけの現象なのか、それとも、ここ十年来、というような、もう少し長期にわたる現象なのか。
いずれにしても、その傾斜が、ジュヴェの時代、第一、第二次大戦間の、いわゆるフランス演劇の「美しき時代」の末期にすでに始まっていたかどうかは、明日の「クノック」を見れば見当がつくだろう。
灯を消す。
時折、自動車の走る音が聞える。甃《いしだたみ》を歩く小さい固い靴音が、次第に明瞭になり、やがて遠ざかっていく。
明日は、ジュヴェに会えるのだ。
「クノック」はすばらしかった。
ラ・アルプ通りの映画館は小さくて、五十とはない客席の正面には、舞台も映写幕もなく、映画はいきなり白壁の上で始まった。
山奥のはやらない病院を譲り受けたクノック先生が、完全な健康体は存在しないという理屈を、巧妙な宣伝技術と、催眠術師的な言葉の駆使とによって村民たちに呑込ませ、商売大繁昌となる喜劇は、今見ても十分皮肉がきいている。
それにしても、なんというジュヴェの生気、なんというジュヴェの迫力であろう。
私はかつて、テレビの深夜劇場で、ジュヴェの昔の映画を見て、物足りぬ思いをしたことがある。死んでしまった役者の映画は、味気ないものだ、と思ったことがある。しかし、その日、白壁の上に現われたジュヴェの幻影は、昔通り、生気に溢れ、昔通りに堂々と実在していた。
ぶつぶつと呟く錆のある声が、不意に抑揚の強い断然とした調子に移り、大きな官能的な唇が薄笑いを浮べるかと思うと、眼は大きく、冷たく見ひらかれている。その眼が、一瞬、虚空を見る。そのままゆっくりと、背を向けて、ジュヴェは歩み去る。緩やかに動く長い腕、長い脚。巨大な体躯。
その日、「クノック」のジュヴェが、それほど生き生きと見えたのは、これが、彼の当り役であったからだろう。初演の稽古を見た作者ジュール・ロマンは、扮装は不要、君の地で演じ給えと、ジュヴェに言ったそうである。
また一つには、そこがパリであったからだろう。そこにジュヴェがいるために、青年時代の私がそこへ行くことを熱烈に夢みた、そして、二十数年の後に、今初めて私がそこにいるパリであったからだろう。
生けるジュヴェの幻影は、今、フランスの芝居がおもしろかろうが、つまらなかろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか、またおいで、と言っているようであった。
やがて私はイギリスへ渡り、渡ったまま帰れなくなった。五月革命である。
ようやくパリへ帰ったのは、六月の末で、その一と月余りの間に、パリの劇場の半数近くが、早々と暑中休暇に入ってしまっていた。私も予定を繰上げて、帰国することにした。
帰国を三日後に控えた七月六日の午後、サン・トノレ街を歩いていて、私ははっと気づいた。
六日はジュヴェの命日である。祥月命日は、八月六日であるが、それでは、間に合わない。
タクシーを拾う。モンマルトルの墓地に着く。五時四十五分である。パリの墓地は、六時に閉ざされる。私は門前の花屋へ飛込んだ。
怪訝《けげん》そうに、肥った髯の主人がこちらを見る。名優レイミュに似ているような気がする。
「墓参をしたいのです。花を下さい」
「もう遅いよ」
「まだ十五分ある」
「一体、誰の墓参りだね?」
「ムッシウ・ルイ・ジュヴェ」
主人が奥へ声をかけると、痩せた、小柄な、やぶにらみの爺さんが現われる。鳥打帽を冠っている。
「ジュヴェの墓参りだそうだよ。案内してやんな」
「花を下さい」
「家は墓石屋だ」
なるほど、窓の花輪は、よく見れば造花である。
やぶにらみの爺さんが、一軒おいた隣の花屋へ案内してくれる。大きな前掛をかけた、これも肥った老婆がゆっくり出てくる。これがまた、ジュリアン・デュヴィヴィエ好みの、妙に落ちついた婆さんである。
紅い菊の花の、大きな一束を、ゆっくりと運んでくる。気が気ではない。
それを察して、やぶにらみの爺さんが脇からしゃべる。これは、無闇な早口である。
「だいじょうぶだ。私が門番に話してやるよ。私がついてりゃ、だいじょぶだ。私は墓地の案内役だからね。だいじょぶだ」
若い門番は、もう大きな鉄の扉を締めようとしている。案内の老人が早口で二言三言、何か言うと、それでも私たちを通してくれた。
「ね、だいじょぶだろう」
チップをやる。やらざるを得ない。
「あんた、運がよかったよ。ジュヴェの墓は、近いからね。これが、奥の方の墓だったら、えらいこった。通しちゃくれないよ。広いからね、ここは」
墓石の間の道を早足で歩きながら、小止みもなしに喋る。
「ジュヴェの墓は、お参りが多いよ。ドイツ人が多いね」
「どうしてだろう?」
「私が知るもんか。来たいからだろう。フランス人も多いよ。日本人を案内するのは初めてだ」
やがて、道は左へ折れ、細くなる。墓石の間を縫うようにして進む。
「ここだよ」
眼の前に、畳一畳ほどの、白い大理石がある。その白い平らな墓を見た途端に、不意に、あたりが静かになり、風景が幽《かす》かに明るさを増したように思われ、私は空を見上げたが、相変らず空は曇ったままだった。
案内の老人の去った後、私はしばらく、墓のほとりに佇んでいた。
平らに置かれた墓石の足の方には、赤いゼラニウムの鉢植が四つほど、手向けられている。頭の方には、蔓草《つるくさ》が植えられている。蔓草は道糸《みちいと》づたいに墓石の縁取りを形造ろうとして、すでに墓石の両側に、やさしい茂みを這わせている。墓石の頭部にはまた、ギリシア風の花壺が置かれていた。その花壺の、枯れた金盞花《きんせんか》の脇へ、私は赤い菊の花の束を挿した。
Louis JOUVET1887—1951
MME Louis JOUVET1886—1967
活字体の、黒い石の象嵌《ぞうがん》を見ているうちに、私は、理由の分らぬ興奮を感じ、動悸と息切れを静める眼のやり場に困った。
——一九六八年一一月 藝術新潮——