十年ぶりに、モスクワ藝術座が東京にやって来た。
くすんだオリーブ色の幕の、栗色の渦巻模様や、座紋の白いかもめの縫取りをながめていると、十年前とそっくりそのままのような気がする。古びた気配はなく、むろん新調のけばけばしさはない。落ちついたいい幕だが、こういう備品類の保管なども、よほど丁寧に、大事にしているのであろう。そう思わせるものが、モスクワ藝術座という劇団にはある。
その大きな引幕が左右に開いて芝居が始まる。初日の演目は、ゴーゴリの喜劇「検察官」である。
「検察官」という喜劇は、最初の幕明きと最後の幕切れとに、強い独特の効果をもった芝居である。最初のせりふで、いきなり事件の核心が語られ、たちまち大さわぎが始まる——はずなのだが、ケードロフ演出の舞台は、むしろ抑制された調子で進む。汚職、賄賂に明け暮れる地方の小都市の、市長(ベロクーロフ)や官吏たちが、検察官到着の報にあわてふためき、その対策に頭をなやますおかしみは、よく計算された、控え目で正確な、身振りの集団的反応によって示される。
しかし、どうも芝居が、湧いて来ない。あふれない。日本初日のせいか。それとも、などと思っているうちに、検察官と間違えられたいささか左巻きの青年フレスタコーフ(ネウィーンヌイ)が、市長の家へ招待され、渡りに舟と乗込んで来るあたりから、芝居は尻上りに面白くなって来た。
慈善病院監督を演じるグリーボフ、市長夫人役のアンドロフスカヤ、ちょっと出るだけの錠前屋の女房、ズーエワ。こういう人たちのまさに間然するところのない演技を見ていると、せりふのわからぬもどかしさ(インタホンがあるにもせよ)が、すっかり消えてしまう。大安心といった気分になる。
表情、しぐさ、身振りの誇張と、より写実的な表現との、混ざり具合、続き具合が面白い。十年前の演目には現われなかった演技術で、これはスタニスラフスキー・システムというものの弾力性と幅の広さとを示したことになる。
役人たちがフレスタコーフに一人ずつ賄賂をおくる、というよりも、まんまと金をまき上げられる第四幕がたのしい。ゴーゴリの毒のある笑いは、第五幕に至って最高潮に達するが、あの有名な、私の大好きな長いストップ・モーションの幕切れが、幕明き以上にあっさりと処理されたのは残念無念であった。
第二夜を見る。チェーホフ作「三人姉妹」
幕明きからすでに、濃い、密度の高い時間が流れている。これはもう、見事というほかはない。
十年前の「三人姉妹」も、陰影に富んだすぐれた舞台だった。同じダンチェンコの演出を基にしているから、今度のラエフスキー演出の「三人姉妹」も、根本のところでは変っていない。しかし趣は大分変っていて、演技、照明、衣裳、装置、その他万事、多彩で明るい「三人姉妹」になっている。
むろん、ただ新しい趣向で行こう、というような調子ではなく、その結果、姉妹たちの三人三様の苦しみや孤独感や、それを乗りこえて生きようとする意志を、より明確にとらえ、よりドラマの中心に位置させるように配慮したための多彩さ、明るさなのだ。
「三人姉妹」は音楽的な構成をもっている芝居で、チェーホフの対位法的な作劇のすばらしさにはあらためて感歎したが、舞台もまたこれに劣らず、終始一貫、いささかの緩みもなく、演じおおせたのは、さすがであった。
三人姉妹たち、オーリガ(ゴロフコ)、マーシャ(ユーリエワ)、イリーナ(マクシーモワ)はもとより、無言の役々に至るまで、まったくすきがない。生きている。
それにしても、何という手ぞろいの劇団だろう。豊かな感情と、確かな技術とを持った俳優たちが、何と大勢いることであろう。ソリョーヌイ大尉(レオニードフ)のいらだち、教師クルイギン(ベロクーロフ)の微笑、「恋の少佐」ウェルシーニン(マッサリスキー)の優しさと苦さ、老婆アンフィーサ(ズーエワ)の悲歎、軍医チェブトゥイキン(グリーボフ)のおどけと悔恨……
軍楽が鳴り、寄りそう二人の妹に、オーリガが最後のせりふを言う。「もしそれがわかったら。もしそれがわかりさえすれば!」
カーテン・コールは感動的であった。
こういう芝居は、十年ぶりなんかではなく、せめて五年ぶりぐらいに見たいものである。
——一九六八年九月 朝日新聞——