暑い。風がない。
日曜なのに、リュクサンブール公園は閑散としている。円形の池のまわりに散らばったおびただしい鉄製の椅子が、空しく日に焼かれている。
門を出る。
目の前にオデオン座の楽屋口。金網張りの掲示板に、中止になった世界演劇祭の青緑色のポスターが、所在なげに残っている。
いわゆる五月革命が一段落したパリの町の、やや色あせた平穏。
円筒形の帽子の警官が二人。
舗道を渡ろうとすると、その二人が、私を見る。年嵩《としかさ》の一人が、近寄るなという身振りをする。
劇場側面の、反対側の歩道に移り、暑い六月の日射しの中を、往来ごしに劇場を見ながら歩く。その劇場の歩廊にも、警官が二人。その二人が、また私を見る。
劇場の淡黄色の石の壁に、黒インクのいたずら書きがある。
「恋人を抱け、銃を離さずに」
「藝術はくだらん」
「詩は黄金、前進せよ、町へ」
………………
詩は黄金、という文句は、「黄金の頭」にひっかけてあるらしい。この詩劇は、オデオン座のレパートリーの一つで、現に今シーズンも、作者クローデルの百年祭を記念して、世界演劇祭のはじまる直前まで(ということは、学生のデモのはじまる直前まで)上演されていたのだ。
劇場の前の広場へ出る。
警察機動隊の黒塗りのバスが二台、劇場の正面玄関を塞ぐように駐車している。
窓ごしに、新聞を読んだり、談笑したりしている警官たちの姿が見える。武装はしていない。上着を脱いでいる者もいる。トランシーバーを持って、何かしゃべっている者もいる。
オデオン座を占領していた学生たちの、最後の一群が、警官隊との小競《ぜ》り合いの後、劇場を明け渡したという記事が新聞にのったのは、もう一週間以上前のことだ。私はその記事を、ロンドンで読んだ。
私が立止ると、二台のバスの中の警官たちが、一斉に私を見る。人通りは少ない。私はまた歩き出す。
ゆっくり十メートルほど歩いて、また立止り、振り返る。一人だけ、まだこちらを見つめているのがいる。窓枠に、両腕を組み、顎をのせている。警戒心が強いのか、退屈しているのか、東洋人が珍しいのか。
すると、黒い影が視野にはいり、黒い背広の男が、うつむき加減に私の前を横切ろうとして、こちらを見る。
気づいたのは、ほとんど同時である。
ジャン・ルイ・バロー氏だ。
「やあ、元気かい」
いつもの、錆のある、静かな声。いつもの、猫背気味の姿勢。縮れた髪、鋭く弧を描く鼻梁《びりよう》。そして、快活な苦笑とでもいうべき、一種独特の笑顔。
「昨日ロンドンから帰って来ました」
「それじゃ、ずいぶんたくさん芝居が見られたわけだ」
「ええ、ピーター・ブルックさんの稽古もときどき」
「そう。それは良かった」
「大変でしたね」
「まあまあ、ね」
「…………」
話しかけたい気持があふれているが、言葉にならない。これは、語学力の問題だ。が、それだけではない。この場所で、この人に、どう話しかけたらよいのか。
私は、数日前、フランス政府が、国立劇場オデオン座の総支配人ジャン・ルイ・バロー氏を職務遂行不十分の故をもって解任したことを、新聞で読んで知っていたからだ。
バロー氏の主宰する世界演劇祭は、イギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニー、日本の文楽と、いずれも好評で、五月三日ごろから次第に激化してきたデモにも拘らず、オデオン座は盛況、大入りつづきだった。
ところが、五月十三日、最初の大爆発が起った。ゼネストである。そのあおりを食って、演劇祭の第三のプログラム、アメリカのポール・テーラー舞踊団は、公演を中止してしまった。オデオン座だけではない。パリの全劇場が、閉鎖してしまったのである。俳優組合がストライキに参加したから、芝居の続けようがないのだった。
そこへ、学生たちが乗込んできたのである。
五月十三日に、オルリー空港で立往生し、翌日の飛行機で辛うじてロンドンに渡った私は、イギリスの新聞やテレビの報道と、また、飛行機が止ってしまっているにも拘らず、どういうわけか、ちゃんと毎朝とどく「フィガロ」の記事を頼りに、成り行きを見守るほかはなかった。
五月十八日、バロー氏はオデオン座で学生たちの委員会と会見を行なった。
学生側の代表は、五月革命の立役者、「赤毛のダニー」と呼ばれるダニエル・コーン・バンディである。
学生側の要求は、劇場を明け渡すこと、ただし、電源のスイッチや、鍵の管理者を残して、学生委員会の指揮下に入れよ、というのであった。
バロー氏はこの要求を受け入れた。受け入れたばかりでなく、舞台から、学生たちに向ってこう言った。
「劇場支配人バローは死にました。ここにいるのは一人の俳優バローに過ぎません」
正直に言って、これはいささか早とちりだな、と私は思った。言う必要のない事だ。新しいものに対する好奇心の、人一倍旺盛なバロー氏が、学生たちの動きに敏感なのは当然だが、自分のポジションを、自分から投げ出してしまったようなことを言う必要はなかったろう。あるいは、舞台という場所が、場所の「魔力」が、俳優バロー氏をそこまで「歌う」気にさせたのか。学生たちがバロー発言を歓迎したのは無論である。
果して、翌日の新聞に、文化相アンドレ・マルローが、バロー氏を正式に非難する声明を発表した。
——バロー氏は政府によって任命された国立劇場の最高責任者である。氏が学生たちに迎合するごとき発言を行い、学生たちの要求によって鍵をかれらに委ね、劇場を明け渡したことは、不当な措置であった。もし退去するのなら、氏は劇場を閉鎖し、氏の管轄下にある全員を率いて退去すべきであった……
こちらの方は、まことに理路整然、筋が通っている。
バロー氏も黙って引き下ってはいない。日をおかず、早速、マルローの非難に答える声明を発表した。
——マルロー氏の非難は当っていない。興奮した学生たちを相手に交わした問答の一部を引用した記事から、私の真意を推測されては迷惑である。私があのような処置を取ったのは、オデオン座を守るためだ。オデオン座は建築自体はむろんのこと、多くの演劇的遺産を蔵している。もし学生たちの要求を入れなかったら、かれらは劇場を破壊してしまったに違いない。マルロー氏は演劇人が劇場に対してもつ愛を忘れているのではないか。私はなるほど政府によって任命された者だが、その任務の第一は、政府に奉仕することではなく、演劇に奉仕することなのだ。私は学生たちに迎合したのではない。演劇人として私は答える。演劇に対する奉仕者《セルヴイトウール》たれといわれればウイ(諾)だが、われわれの下男《ヴアレー》になれといわれればノン(否)だ……
結びの「セルヴィトゥール・ウイ、ヴァレー・ノン」という文句は、その数日前、ルーマニアから帰ったドゴール大統領が語った「レフォルム・ウイ、シアンリ・ノン」(改革は可、ごろつきは不可)と、韻を合わせたような感じがする。
しかし、芝居がしやすいように、見やすいように、細心の注意のもとに設計され、管理されて来たオデオン座の美しい裏表を見知っている私には、バロー氏の心情が、人ごとならずわかるような気がした。しかし、恐らく、それで失言が消えるというわけには行かぬだろう。
間もなく、政府はバロー氏に、解任通知状を送ったが、その通知状には、マルローの署名がない。バロー氏は、解任はマルローの真意ではなく、通知状は無効であるとして、受理を拒んでいるという。
かつて、国立劇場の不振を打破するために、在野のバロー氏をオデオン座の総支配人に推挙したのは、他ならぬマルローであった。皮肉なめぐり合せである。
一方、オデオン座の内部は、バロー氏の願いも空しく、荒廃しているという。ごみの山が出来、衣裳類は破損し、廊下にも広間にも客席にも楽屋にも、外壁と同様、いたずら書きが書き散らされているという……
言うべき言葉が見つからないまま、私は帰国の挨拶を述べる。
「御健康を祈ります」
「有難う。君もね。鈴木さんによろしく」
手を振って、バロー氏は歩き出す。
その前こごみの後姿が、レストラン「地中海」の扉の向うに消えるまで見送って、私も歩き出す。
バロー氏が再びこの劇場の指揮をとり、この舞台に立つ日が、来るだろうか? ほかに適任者があるとも思えない。しかし……
暑い。あいかわらず風がない。
ドゴール派が、圧倒的な票を集めつつあった投票日の午後のことであった。
——一九六八年八月 東京新聞——