いま、マドレーヌ・ルノー〓ジャン・ルイ・バロー劇団の東京公演を、その全部のだしものを一と通り見終えて、私は、ひどく骨が折れたような、気の抜けたような、苛立たしいような、茫然としたような、妙な気分になっている。この気分は、観劇の緊張、興奮、感動の後にくる疲労感を含んでいるが、必ずしもそればかりとは言いきれない。もっと複雑なものを含んでいるように思われる。
芝居を、ことに外国人の演じる芝居を四日間たてつづけに見ることは、まったく、たいへんなことだ。言葉の障害がある。生活感情のちがいがある。だいぶ前から原文と翻訳とを読みくらべ、レコードのあるものはそれも聴いて、予習して出かけたのだが、果してどれだけの効果があっただろうか。むろん、せりふをいちいち克明に聴きとろうとすることだけに注意を集中したわけではない。それでも、せりふのテンポが速くなったり、他に気をとられたりして、何を言っているのか分らなくなると、ついそのことが気になり、反射的に、すこし先廻りをして、記憶している言葉や文句をたよりに、せりふを捉まえる。また、ふり放される。そんなことの連続であった。私は、予習をしたことが、かえって観劇にわざわいしたとは思わない。むしろその反対である。しかし、それでは予習にもっと長い時間をかけて、たとえばせりふを諳《そら》んじて芝居を見たら、骨が折れず、苛立たしい気分にならなかったろうかと考えると、あるいは、もっと感動が深まったろうかと考えると、そうは思えないのである。
いま私が、茫然とした妙な気分になっていることについては、バローの劇団の一つ一つの芝居について、具体的に語るほかはない。それは、役者として、また、ずいぶん長く仕事をしていないが演出者として、私がバローの芝居にかけた期待がどう報いられ、あるいはどうはぐらかされたかということと関係があるからである。
クリストファ・コロンブス
オーケストラ・ボックスで音楽がはじまる。幕があがる。舞台の中央には二重が組んである。その上に、天井から、ほとんど舞台の空間の半ばを領するかと思われるほど、大きな白い幕が、二つにたたまれたまま、垂れている。上手と下手の袖から、楽手がラッパを奏しながらあらわれ、階段をおりてオーケストラに加わる。上手の袖花道から、旗手を先頭に、葡萄酒色のマントを着た説明役とコーヒー色のマントをまとった役者達の行列があらわれる。燭をささげる者もあり、棒をもつ者もあり、椅子を担ぐものもあり、藁束をかかえている者もある。
長い行列は静かに上手から奥の壁にそって進み、やがて二重の上に並ぶ。音楽がやむ。とたちまち、彼らは隊伍をみだし、話し合ったり、肩を叩きあったり、笑いあったりする。青年時代のコロンブスに扮したバローが、役者たちと打ち合せをし、帆の具合をたしかめ、オーケストラの指揮者に眼くばせをし、いそがしげに舞台を走りまわる。大きな本を抱えた説明役が、声高らかに叫ぶ、「静かに!」役者たちは口をつぐみ、身構える。彼らは合唱隊となる。合唱隊の長(コロンブスの保護者)が、杖で舞台を三度叩く。芝居のはじまる合図である。
いかにも、バローの劇団の初日にふさわしい幕明きだった。写実風の芝居とは全く異質の芝居がこれからはじまるのだという期待、というよりも、私たちがかねてからバローの劇団に寄せていた期待がまざまざと眼前に現在したという感じを、それはもっていた。
しかし、それにつづいて起ったことは、すこし私を戸惑わせた。
開幕の合図に応じて、ラッパ奏者が、高らかにファンファーレを吹きならす。と、保護者があわてて取消しの合図をする。楽手は「ごめんなさい」と大声であやまる。喜劇的で即興的な効果をねらった演出である。同様な演出が、以後もたびたび見られた。
白い幕のうえに、大きな手が映しだされる。神の手である。手は闇と煙の中を下降し、たゆとう暗い流れを探り、一塊の混沌《こんとん》とした球状のものをつくり出す。地球である。合唱隊は聖書の天地創造のくだりをうたう。ところが、二つにたたまれた白い幕の襞《ひだ》は、この折角のイメージを十分鮮明に映しださない。
これは後にもふれるが、バローの劇団の俳優たちの演技は、ことに動きや身振りは、一体に自発的であり、自由であって、モスクワ藝術座の俳優たちのように、演出の統制によって、細部まで整えられ、磨きあげられているという趣を欠いている。その特質が、モリエールやマリヴォーのような作品ならばともかくも、「コロンブス」のような一種の群衆劇では、いっそうはっきりあらわれる。
たとえばそういうようなことが、私を戸惑わせたのだ。劇が、いよいよ軌道にのろうとしているのに、それにふさわしい整然たる気配が感じられない。騒がしい感じがする。大胆で独創的な照明や、簡素な落ちついた配色の衣裳が、あきらかに私たちをそこへ誘っているのに、その劇中の世界へ安んじて入ってゆけないような何かが、全体に感じられる。
ことに、開幕早々の喜劇的な即興的な演出は、言葉の通じない観客にたいするバロー氏の親切から出た配慮だったかも知れぬが、作品のもつ悲劇的緊張感を弱めたように思う。
しかしそうはいうものの、見ているうちに、私はだんだん舞台にひかれていった。
藁束にもたれた老残のコロンブスにオーケストラ・ボックスから呼びかける合唱隊の力強い声。コロンブスは舞台を下り観客とともに彼の一生をながめる。幕に、幼いイザベル女王が、白鳩の脚に指輪をつけて放す場面が映る。海上を翔《かけ》る鳩。明るくなると舞台には若き日のコロンブスの家族たちがいる。コロンブスはマルコ・ポーロの伝記を読んでいる。彼は東方の国へ旅することを夢みる。と、下手から、こんどは本物の白鳩が、とんできて、コロンブスの妹の手にとまる。……
騒然たるままに、そこにはあきらかに演劇的なヴィジョンがあった。ゆれる甲板のうえをゆくバローのマイム。合唱隊と、その長であるコロンブスの保護者と反対者とのはげしい応酬。ことに四度目の航海に出たコロンブスが嵐にあう場面の、帆(幕)のはげしい動き。船艙の柱に縛られ、苦しい過去の思い出にさいなまれつつ、口ぎたなくののしる料理番にこたえるコロンブスのうしろで、大きくあおられ、ひるがえる帆の効果は、すばらしいものだった。
クローデルの荘重な悲劇が、こういういろいろな演劇的表現のつみ重なりの中に埋もれてしまって、本来あるべき重量感や緊密感を失っているという気が、しないでもない。しかしまた、こういう演出でもしなければ、この作品は、荘重には違いないが退屈な、だらだらした芝居になっただろうという気もする。
場面の転換は早く、人物の出入りも早い。いちいちの劇的効果を、じっくりと念を押すということを一切しない。せりふが終れば、その場面は終る。幕切れちかく、オーケストラ・ボックスにいた伝説中のコロンブスが舞台に上り、彼と同様に老い朽ちた劇中のコロンブスと肩を組んで退場する感動的な場面でも、二人が観客に背をむけて一足、二足ふみ出すと、もう上手から、他の人物が、藁束をかたづけに出てくる。そういうところは、むしろ小気味がよいくらいである。芝居に対するバローの燃えるような信念の感じられる、感動的な初日だった。