この日も、バローはおもしろい幕明きを見せてくれた。
古風な、快活な音楽で幕があがると、暗い舞台の一隅に、上手前面に置かれた作者モリエールの石膏の胸像が、一条の光線の中に白く、くっきりと浮んでいる。像は、二メートルほどもあろうかと思われる台の上に置いてある。花束が二つ、白い小さな花束は台の上の像に添えて、色とりどりの大きな花束は台の下に置かれている。その二つの花束の関係は、ちょうど、芝居における作者と、役者達との関係を示しているようで、おもしろかったが、音楽はかなり長くつづき、私はなんだか読みたいと思っている本の表紙を、なかなか開けてもらえないでいるような、もどかしさを覚えた。
音楽が終ると、舞台が明るくなり、口絵と本文とがいっしょにはじまる。というのは、古い銅版画に描かれた十七世紀の舞台図をそのままにひきうつした装置のなかへ、しゃべりながらアルセストとフィラントとが入ってきたからだ。
照明もまた、こういう装置にふさわしく、フット・ライトを入れて、いやがうえにも明るく、人物たちを浮彫りにする。細かい白と灰色の線だけでできている背景の効果は、たとえば日本舞踊や歌舞伎の新作などにつかわれる墨絵風、絵巻物風の背景が、しばしば、絵としての効果をもちすぎるのにくらべると、はるかに無機的で、乾いた味わいをもっている。
衣裳は、あいかわらず美しい。十七世紀風の衣裳を、現代的な感覚で、しかも比較的おだやかに扱っている。これは、演出全般にわたって言えることだが、こういう古典を、ことさら手荒く、新奇な手つきで扱わず、作品自体の内に、その現代性を求めようとするバローの態度は、おそらく正しいだろう。バローは、東京における記者会見の際、フランスにおける反演劇派《アンチ・テアトル》についての質問に答えて「演劇には良い演劇と悪い演劇の二つしかない。私の立場は、反悪演劇だ」と答えたそうである。それは、私に、バローの師匠シャルル・デュランの言葉を思い出させる。デュランは、第一次大戦後の演劇革新運動の一方の旗頭だったが、「新しいことが大切なのではない、良く、そして真実であることが、私たちの劇場の目標だ」と書いた。この言葉は、さらに、デュランの先輩ジャック・コポーの思想につながるだろう。コポーは、演劇が、本来保守性のうえに成り立っている藝術であることに気づき、その保守性を梃子《てこ》にして芝居を革新しようとした最初の人である。
私は舞台をながめながら、コポーの演出した「人間嫌い」はどんなふうだったろうかと、ふと思った。コポーは、バローと同様、主人公アルセストの役を演じたはずである。そして、良識家の友人フィラントを演じたのは、ルイ・ジュヴェだったはずである。もしジュヴェがアルセストをやったら、どうだろうか。
そんなことを考えるのは、現にアルセストを演じているバロー氏にたいして、はなはだ失礼なことだとは思いながら、私はしばらくこの空想をたのしんだ。
女優は、セリメーヌを演じるルノー、エリアントを演じるヴァレール、アルシノエを演じるネルヴァル、三人ともそれぞれに、すばらしい雰囲気をもっている。それは、まったく「雰囲気」という字の示すとおりのもので、身体のまわりに靄《もや》のようなものが立ちこめている感じである。たとえば、淡い藤色の衣裳を着たヴァレールは、淡い藤色の靄につつまれており、その靄の実質的なことは、眼に見え、手にふれることができるかのようだった。雰囲気のある役者、という言葉は生活のある役者という言葉とともに、岸田国士先生の愛用された言葉だが、それはたんなる形容ではなく、文字通りに、そういうものがあるのだという強い感じを、私はうけた。ルノーが退場すると、彼女のひくクリーム色の靄が、まだしばらくは、舞台に漂っているようだった。
五幕の芝居だが、幕は、第二幕の終りにおりるだけで、後は暗転でつないでゆく。暗くなると、ほとんどすぐに、床を叩き鳴らす例の合図がはじまり、大きく三度鳴るのをきっかけに、明るくなり、芝居がはじまる。そのテンポが、快い。こういうやり方は、私たちも「守銭奴」でこころみたが、なかなか思うようにはゆかなかった。第一には、役者の体力の問題であり、第二には、装置の問題があるだろう。暗転の舞台で、役者がまごつかないためには、舞台への通路の単純化されていることが必要である。つまらぬことのようだが、こんなことが役者を落ちつけ、すぐ次の場面の演技に応じられるように、心にゆとりを与えるのである。この日の舞台は、正面奥に、大きな両開きの扉があるだけで、上手下手には、それぞれ扉のない広い出入口があり、役者はどこにも、引っかかりようのないように出来ていた。
さて、肝腎の芝居だが、昨日と同じように、言葉の通じない私たちに見せるための配慮が今日も感じられた。動き、身振り、手振り、表情がいくらかずつ誇張されている感じである。ことに、アカストとクリタンドルにおいてそうである。しかし、それはまあたいしたことではない。
上品ぶった浮薄な社交界に愛想をつかしている男がある。彼は正義の士であり、心にもない世辞や愛嬌を振りまき、面白おかしく毎日を暮している紳士淑女に腹を立てている。そういうことは恐るべき偽善としか彼には思えないからである。彼はことごとに当り散らす。ところが、彼にとって具合の悪いことに、彼はその偽善のかたまりのような美しい浮気な未亡人セリメーヌに恋をしている。浮気なセリメーヌは、相手かまわず恋文を書く。それを知った彼は、激怒のあまり逆上して優しいエリアントに結婚を申し込む。「結婚して下さい。仇討だ」こう言うアルセストは確かに滑稽でいくらか悲痛な人物である。バローは、そういうアルセストを巧みに表現していたし、ルノーのセリメーヌに至っては、まさに彼女の真価を発揮したものといってよい。ドサイのひかえめなフィラント、ネルヴァルの皮肉なアルシノエ、ベルタンのもったいぶったオロント、この「人間嫌い」は、確かにみごとな室内楽を聞いているような趣がある。しかし、少し室内楽的にすぎはしないか。
これこそ言葉の芝居であり、言葉がわからないことは、この場合「コロンブス」とは比べものにならぬほど決定的な意味をもつだろう。しかし私はどうもそういう気がするのである。社交界の風景の中にアルセストがぴたりとはまりこむことによってではなく、逆にその枠からはみ出ることによって、言いかえれば、この作品の副題の「怒りっぽい恋人」であるだけではなく、ミザントロープ(人間嫌い)というおぞましいギリシア語にふさわしい存在になることによって、この作品は初めて格調の高い悲喜劇となり得るのではないかと。