ロジェ・ヴァディム監督の「危険な関係」を見た。
西洋将棋盤の接写。駒は古拙な土偶である。眼の痛くなるほどあざやかな白と黒の市松模様のなかに、役者の名前がとびとびにあらわれ、やがて題名「危険な関係・一九六〇」が浮び上る。これは主題にかなった巧妙なタイトルで、効果もなかなか強烈であった。
十八世紀のラクロの原作を、こういう形で、現代化したことについては、本国のフランスでも賛否両論がさかんに行われたらしいが、映画のはじめの方、三分の一くらいまでは、原作のもつ雰囲気を、かなりうまく再生している。原作の女主人公、というよりも、唯一の主人公メルトゥイユ侯爵夫人は、映画では、外交官ヴァルモンの妻ジュリエットとなり、この夫婦は、互いに相手の情事を認めあい、その経過を報告しあい、時には共謀し、唆《そそのか》しあうのである。映画は、その不倫頽廃の生活が、ヴァルモンの意識下にある真の愛への志向によって、崩壊してゆく過程を描こうとしているように見えた。
しかし、それが崩壊するのは、ヴァルモンの内部にある志向のゆえばかりではない。共犯者のジュリエットの内部に、そんな志向が微塵《みじん》もないということの方が、肝腎なのだ。彼女は、ヴァルモンと違って、自分がもう愛などというものへ引返せないことを、十分承知しているのである。ラスト・シーンで、「ごらん、あの顔が、あの女の心の看板なのだ」と罵られる時、彼女は、みにくい火傷の顔を昂然とあげ、カメラマンのフラッシュに、身じろぎもしない。そしてこの映画は、ヴァルモンの活動を描いた割には、ジュリエットの、へんな言い方だが、不動の心を描いていないのである。
しかし、ジャンヌ・モローのジュリエットは、面白かった。こういう役柄のモローは、もうずいぶん見ているわけで、実をいうと、またか、というくらいの気持で見はじめたのだが、それが、だんだんそうでなくなった。後半の、雪の公園で、モローはすばらしい顔をした。夫が犯した少女の恋人と会い、再会を約して、枯木立の道を行く彼女の顔には、夫への復讐の決意と、倦怠との、奇妙に混りあった複雑な表情が浮び、私は、そのカットの短かすぎたことが、残念でたまらなかった。
ヴァルモンを演じるのは、ジェラール・フィリップで、この役は、いわば彼の遺作である。ジェラール・フィリップの死んだのは、一昨年の十一月二十五日である。同じ月の十三日に、私は肺の手術をした。術後の熱に浮かされた眼に、彼の死を報じる新聞記事が、とびこんできた。彼は内臓の手術後、回復不十分のままに、仕事をはじめ、それが命取りになったらしかった。
「モンパルナスの灯」を見ていない私は、ずいぶん長く彼の映画を見ていないことになる。そのせいか、老けたな、と思うこともあった。かと思うと、昔ながらのジェラール・フィリップの、華やかな、あるいはメランコリックな、いずれにしても若々しい顔や姿が、画面いっぱいにひろがった。「肉体の悪魔」はともかく、「愛人ジュリエット」や「花咲ける騎士道」のイメージが、そっくりそのまま生きている——そんな気がした瞬間さえあった。
ヴァルモンが、彼の最上の演技といえるかどうか、私には、いささか疑問がある。しかし、そんなことは、どうでもよい。青年につきとばされ、床に倒れて、あっけなく死ぬヴァルモンを演じた後、まもなく、ジェラール・フィリップ自身も、まったくあっけなく死んでしまった。そしてこの遺作は、彼のかつてのファンたちを多く集めるだろうが、やがて、過去の作品となり、人人は彼を見なくなり、彼の名前だけが語られることになるだろう。役者の「作品」は、残らない。文学や、美術や、音楽のようには、残らないのである。そして、一人の役者が死ぬと、あたらしい次の役者が前へ押し出される。芝居や映画では、そもそも、「死」は禁句なのだ。
夜、帰宅した私は、レコードをかけた。ジェラール・フィリップの演じる「ホムブルグの公子」の朗々たる長ぜりふをきいていると、私は、次の芝居の稽古のはじまりが、ひどく待遠しく思われた。
——一九六一年五月 藝術新潮——