疲れた。まったく、疲れた。
こんなにくたびれた芝居の稽古は、めずらしい。
私たちは、いま、東京でノエル・カワード作「ヴァイオリンを持つ裸婦」の初日をあけて、一応ホッとしているところである。
むろん実は、これからが、一日一日たいへんなのだが、あの六週間の稽古のくたびれ方はまったく異常であった。
「ハムレット」とか「マクベス」とか「ジュリアス・シーザー」とか、動きの多い、朗々たるせりふ廻しを必要とする古典劇ならば、くたびれるのはあたりまえである。しかし「ヴァイオリンを持つ裸婦」は、そんな芝居ではない。どちらかといえば、動きの少ない、デリケートな喜劇である。それが、むやみにくたびれるのである。稽古を終えて家へ帰ると、夕食までの間《ま》がもてない。ごろりと横になって、一時間ばかりいびきをかいて眠る。
私の役は召使頭で、割に出場《でば》は少ないのに、疲れることおびただしい。そこで体の具合が悪いのではないかと思って、病院でしらべてもらったが、どこも何ともない。きいてみると、私だけではない。岸田今日子も、中村伸郎も、加原夏子も、加藤武も、丹阿弥谷津子も、加藤治子も、みんなむやみにくたびれるらしいのである。
つまり、だれもかれも、緊張して黙って相手の芝居を受けている間が長く、それも表向きはごく自然に笑ったり、酒をのんだりしながら待っていなければならない。それでくたびれてしまうらしいのである。
肌理《きめ》の細かい芝居をつくりあげてゆくむずかしさは、一種独特で、せっかちな人には、そんなやり方はむだな努力と思われがちだが、実にそこが肝腎なところなのだ。そういうところを抜きにして、芝居というものは成り立たないだろう。
「ヴァイオリンを持つ裸婦」は、カワードの戦後の代表作である。去年、私たちの上演した「陽気な幽霊」は、彼の戦前の作品であり、美しい先妻の幽霊が、夫と後妻をなやますという状況自体がそもそも喜劇的だから、役者はその状況にいくらか寄りかかることができた。「ヴァイオリン」はそうはゆかない。それぞれの役の人間が、生き生きと劇的状況をつくり出してゆかなければならない。役者にとっては、芯の疲れる芝居なのである。それが、またやりがいなのだ。三人、四人、五人のみじかいせりふのやりとりが、間髪をいれず、ぴったり呼吸の合ったときの気分は、何とも言えない。そういう時、六週間の稽古の疲れはどこかへふっとんでしまうのである。
——一九六三年五月 朝日新聞——