昨年の暮、私たちは岩田豊雄作の新作狂言「鬼の始末」を、中西由美の演出で上演した。
この狂言は、まったくの新作ではない。「節分」を下敷きにしている。原作には出てこない亭主が出てきたり、鬼が打出の小槌を持っていたり、いろいろ変ったところはあるが、大筋は「節分」の通りで、節分の夜、亭主の留守に異国の鬼がやってきて、女房を口説く。女房は鬼を適当にあしらった後、豆を撒いて鬼を追い払ってしまうのである。私は、シテの鬼を演じた。
「節分」は、昔、水道橋の能楽堂で見たことがある。野村万作氏の鬼が、みごとであった。橋がかりを出てくるところからして、いかにも古怪なおかしみがあり、私はそこでもう感心してしまい、鬼から目が離れなくなった。女房に豆を打ちつけられて、長く尾をひく唸り声を立てながら、たたらを踏んで逃げてゆく速い引込みは、ことにあざやかで、忘れられない。万作氏はむろん今でも若いが、あの鬼の引込みには、もっと若かった氏の気力と体力とが充溢《じゆういつ》していて、凜然《りんぜん》たる趣があった。
その氏の演技が、脳裡にちらついているので、「鬼の始末」の配役が発表された時、私は手放しでは喜べなかった。
文体が、そもそも狂言の文体なので、つい狂言まがいの演技になってしまう。それなら、本職にかなわないことになる。せりふ、動き、気持の表わし方など、万事、新劇風に自由にやる方がいいだろう。しかしそうなると、今度は文体に縛られる。堂々めぐりだが、それは言わば承知の上であった。こういうことは理屈のほうから入っていけば、いつも同じ筋道を通って、同じ場所へ出てしまうものだ。
鬼は、マスクを使用する。ただし、半仮面を使って、口の動きが見えるようにする。衣裳は明治の狂言に使われた「異人」の衣裳をアレンジする。これは、南北戦争時代の軍服に似ていて、蓬来《ほうらい》の国(アメリカに酷似している)から雲にのって日本へ攻め寄せ、途中で迷子になった「鬼の始末」の主人公にはまことに打ってつけである。ついでに軍帽をかぶる。杖のかわりに、小銃を持つ。鬼の登場にはジェット機の効果音をあしらう。女房や亭主の衣裳も鬼に準じて適当にアレンジしたものを用いる。たとえば亭主は二重廻しを着、山高帽をかぶって外出する。演技も、すべてこの調子でゆく。狂言のほうから見れば、出たらめもはなはだしいこんなやり方が、新劇役者のいい栄養になるのである。
私はあくまで自分流に演じたが、あとで万作氏に叱られた。大体お前の鬼は、客を笑わせようとするからいけない、狂言というものは、滑稽に演じるものではない、引込みにホリゾントの壁へ頭をぶつけるなんて最低だ、という。何を言ってるんだ、お前さんの鬼は橋がかりをまっすぐに引込むけれど、こっちはホリゾントの壁へ向ってまっすぐにかけ出すんだ。そういう鬼なんだ、くすぐりじゃないなどと、二人とも酒が入っているから、談論大いに風発した。鬼同士で豆をぶつけ合っているような形だったが、年来、万作氏のファンである私には、久しぶりのたのしい一夜であった。
——一九六七年四月 狂言——