「なよたけ」の稽古も、ようやく最後の仕上げの時期に入った。初日が近くなると、きまって私達をおとずれる二つの矛盾した気持——初日を待ち遠しく思う気持と、もう少し稽古をつづけることができたらと願う気持とが、そろそろやって来る頃である。
演出については、今、取りたてて言うほどのことは何もない。戦後に発表された数多い戯曲のなかでも、「なよたけ」ほど、多くの人々に愛されている戯曲は少ないのではないかと思う。多くの読者が、心の中に「なよたけ」の理想的な舞台を描いているにちがいない。そういう「なよたけ」を演出することは、たしかに気骨の折れる仕事だった。
演出をしていて、あれこれと考え迷った時、ゆたかな舞台的映像の流れにまきこまれて途方にくれた時、僕を救ってくれたのは、「なよたけ」の原文《テキスト》そのものだった。原文をくりかえして読んでいるうちに、この甘美な、凜然《りんぜん》とした戯曲をつらぬいている独特の伸びやかな声調がふたたび感じられてくるようになり、それがいつも、あたらしい動きや調子を発見する手がかりになっていった。この起死回生の劇を支えている作者の思想が、詩と演劇とに対する加藤道夫の若い純粋な信念が、絶えず僕を励まし力づけてくれたのである。そして、先輩や友人達の助言が、僕の菲才《ひさい》を補ってくれた。
「なよたけ」についての思い出はありあまるほどある。いま僕は、それらが「何千年も遠く過ぎ去った昔のこと」のようにも思われ、「かと思うとつい昨日のことだったような気も」している。
間もなく初日の幕が明く。客席に坐ってみても、となりの椅子に加藤道夫はいない。しかし、どこかの暗い隅で、舞台を見ていてくれそうな気もする。廊下へ出ると、人波のなかから、手を挙げ、優しい微笑を浮べながら、加藤があらわれてきそうな気がするのである。
——一九五五年一〇月 「なよたけ」パンフレット——