遠藤周作氏の「黄金の国」は、氏が長年追求してきた主題——西欧の神、あるいは思想の根源は、日本の風土あるいは日本人の性情に適うかどうかという主題を、もっとも充実した形で提出している作品です。
濃い、密度の高い思想というものは、屡々、劇場性をもたないもの、時としては劇場性に対立するものだと、私は思います。
劇場にとって、思想は、往々にして危険な毒薬あるいは放射性物質のごときものであり、これを扱うには、よほどの注意が必要なのです。むろん私はいわゆる「思想劇」について言っているのではありません。「思想」のプロパガンダは、劇とはまったく関係のないべつの事柄に属します。
「黄金の国」は危険な要素を十二分に含んだみごとな劇ですが、この作品を演出しながら、私は、いくつかの点に特に気をつけて来ました。
例えば一つは、芝居の「たのしさ」を形造る演技のテンポやリズムやピッチを生かすという名目のもとに、思想の濃度を薄めてしまわないこと。
また一つは、叙事詩的、抒情詩的、浪漫劇的、議論劇的、その他さまざまの異質の要素を、できるだけ生《き》のままに活かし、ぶつけ合せること。
つまり外面的な動きの効果や統一感を求めすぎて、なめらかな芝居に仕上げてしまわぬこと、など。
これは手数の多い、むずかしいゲームを手強《てごわ》い相手とやっているようなもので、演出をしていてこれほど張り合いを覚えたことはありません。
稽古場の活気が、舞台でいっそう高まることを念じています。
——一九六六年五月 雲——