十月八日、私たちは、現代演劇協会および付属劇団「雲」の本拠となる建物の落成披露会を催した。麻布箪笥町十五番地、フィンランド大使館にちかい百八十坪の地所に建てられた鉄骨コンクリート延百四十六坪の建物は、一階が定員およそ百三十人の小劇場、二階が図書室、事務室、演技員室等にわかれている。着工は四月十日。最後は突貫工事で、披露会の前々日、ようやく屋外の階段のコンクリートを打ち終るという有様であった。
なぜそんなに急いだかというと、披露会が十月十日から始まるオリンピックの会期中に入ってしまうと、車の混雑やその他、いろいろ差障りがあると思われる節が多かったからである。後になってみれば、余計な取り越し苦労であったかも知れないが、予測される不都合は避けるべきであった。オリンピック明けには、すでに稽古に入っている中村光夫作「汽笛一声」の横浜公演の初日が迫っており、その仕上げの時期に稽古を一日休むのは、いかにも残念な気がする。いっそのこと、「汽笛一声」の地方公演後、十一月半ばにしてはどうか。それでは遅すぎるだろう。われわれの仕事を支持し、援助して下さった方々の御好意にこたえるための披露会なのだから、椅子やテーブルや書架など、内部の備品は整わなくとも、建物だけは、一日も早く見て頂こうではないか。
いろいろ相談をして、工事現場とも打ち合せた結果、八日と決ったのだが、決った後にある人から、その日は大安吉日で、しかも八が末広がりのめでたい数であるために、諸方の結婚式場はどこも予約がいっぱいであると聞いた。
ところが、生憎《あいにく》なことに、この日は、朝から雨であった。
しかも、時の経つにつれて雨脚が繁くなり、なるほど、これは末広がりだと感心しているうちに、どうしたわけか、せっかくの新築に、雨漏りがしてきた。それも、来賓の入口にあたる一階の軒下である。
すでに開会間際であり、この雨では来て下さる方も少ないのではないかと、内心はらはらしているところへ、思わぬ事態が生じたので、一同いささか気落ちがしたが、芝居の仲間というものは、こういう時にはへんに度胸がすわる。とちった時、動じるのは禁物である。たちまち、コンクリートの床に跳ねる雨の滴《したた》りを囲んで、円筒形の陽気な人垣ができあがった。むろん隠しおおせるつもりはない。不測の事故を、一種の笑劇的雰囲気で包み柔らげようというわけなのだ。
筵《むしろ》を敷いた中庭には、受付と模擬店のためのテントが張ってある。雨はいよいよ本降りになって、ゆるんだテントは、大きな氷嚢のように垂れ下ってきた。小池朝雄が、しきりにテントを突き上げては溜まった雨水を筵の外にこぼす。おでんと焼鳥の店を出してくれた銀座のはせ川のおかみさんが「こういうときの雨は縁起がいいんだそうですよ」と慰めてくれる。「ありがとう」と私は、笑顔で答えたつもりだが、笑顔になっていたかどうか、怪しいものだ。レインコートの襟を立て、傘を傾けながら、長い難儀な階段をおりて、受付に立たれる来賓の方々の肩や袖口が、雨に濡れている。
やがて会は、福田恆存理事長の挨拶で始まった。
来賓に謝意を述べた後、福田さんは、「どうも私たちは天候に恵まれておりません。『雲』を名のった以上、のがれられないところと観念しております」と、笑いながら言われ、私は、そうだ、まったくひどいものだったと、ひそかにうなずいた。
去年の二月三日、「雲」の創立総会の日の大雪。
おなじく三月二十八日、旗挙げ公演「夏の夜の夢」の初日の夜の大風。
病院の窓からそれを見つめ、屋上に立ってそれに圧倒されそうになりながら、私はほとほと身の置きどころのない思いをしたものだった。仕事をしている健康な友人たちと、病院の私との間に、降りしきっていたあの雪や、吹きつのっていたあの烈風にくらべると、今日の雨は、なんと静かなことだろう。今、私は曲りなりにも健康を取りもどして、この落ちついた暗緑色の壁をもつ未完成の小劇場で、こうして友人たちといっしょに福田さんの話を聴いている。雨は、私たちを距《へだ》ててはいない。予後の静養につとめている岸田今日子の欠けているのが惜しいが、私の場合とは違うから、間もなく元気な姿を見せてくれることだろう……。
福田さんにつづいて私たちも御礼を申し述べ、野村万蔵、万作父子の演じる狂言「蝸牛《かたつむり》」によって舞台開きのおこなわれる頃には、雨を冒して来て下さる方々は殖える一方で、会はいよいよ賑やかになった。会場が狭いため、昼夜二回にわたって披露会を催したが、雨は夜に入っても止まず、会は夜も昼のように賑やかにつづいた。
今後もいつ何時、雹《ひよう》や、雷や、竜巻に見舞われるかも知れない「雲」は、この大安吉日の夜、はじめて拠るべき城をもつことができたのである。
——一九六四年一二月 婦人公論——