マイケル・ベントール演出の「ロミオとジュリエット」で、私は序詞役と薬屋の二役を演じた。
序詞役は、ヴェローナの大学の歴史学者という設定である。黒い長いガウンをまとい、大きな皮表紙の本と、巻いた羊皮紙とを持っている。彼は、ロミオとジュリエットの痛ましい恋の経緯を目撃して、それを記録した男である。そこで、劇中、群衆の出る場面には、かならず顔を出す。いわば、無言の合唱隊長である。
幕明きの口上をのべおわると、教会の鐘がなり、舞台が明るくなって、ヴェローナの街の広場になる。序詞役は歴史学者として、つまり、群衆の一人として、皮表紙の本のうえに羊皮紙をひろげ、何か書きながら歩き出す。
ところが、これがなかなか厄介で、左手に重い皮表紙の本を支え、そのうえに巻いた羊皮紙を繰りのべて左手の指で押え、鵞ペンを持った右手で、左の指にひっかけてあるインク壺の蓋をとり、ペンをひたし、何やら書いたあとでまた蓋をしめ、羊皮紙を巻く、その手順が、ややこしいといったらない。舞台稽古のぎりぎりまで、いろいろやり方を変えてみても、どうも何かが余計な感じで、いくら歴史学者でも、こんな思いをしてまで、歩きながらノートをとることはないだろうという気がしてくる。
そこで、ふと思いだしたのは、ジャン・ルイ・バローの「ハムレット」である。
父の亡霊を見た後、独白をしゃべりながら、バローはじつに変なことをした。「忘れるなと? よし、本からおぼえた金言名句、幼い目に映つた物の形や心の印象一切合財、いままで記憶の石板に写しとつておいた愚にもつかぬ書きこみは、きれいさつぱり拭ひ去り、ただきさまの言ひつけだけを、この脳中の手帳に書きしるしておくぞ」(福田恆存訳)
この最後のくだりで、バローは胸のあたりから手帖を取りだし、踏みしめた右の股を台にして何やら書きこみ、またそれを胸にしまうしぐさをしてみせたのである。
むろん、実物の手帖をつかったのではない。すべてお得意のマイムで演じてみせたのだが、これは、どうにも腑に落ちかねるやり方であった。ハムレットの性格に内在する狂気、あるいはいたずら好きの精神の表現として見ても、いかにも中途半端で、ことによるとアンドレ・ジッド訳の台本のせいかなどと、当時考えたものだ。しかし、それはそれとして、序詞役のややこしい手順をはぶくために、あのやり方をとり入れるのも、わるくないという気がしたのは、つまるところ、溺れるものは藁をもつかむの心理であったかも知れない。
しかし、いくらマイムをとり入れるといっても、本と羊皮紙と鵞ペンとは、省くわけにはいかない。カットできるのは、インク壺だけである。幸い、衣裳はだぶだぶの黒いガウンだし、左手に支えた大きな本のかげで、架空のインク壺の蓋を取るしぐさをすれば、おそらく観客には気づかれずにすむだろう。日本の新劇のリアリズムから行けば、これは明らかに手を抜いたやり方で、手順がうまく行くようなインク壺なり、持ち方なりを、何としてでも発見すべきところなのだが……
最後の舞台稽古の日、暗い客席から舞台へ歩みよってきたベントール氏に、私は下手な英語で、おそるおそる(というのは、インク壺を用意するように小道具係に命じたのはベントール氏であったから)たずねた。
「インク壺を持っているふりをして、つまり、実物は持たないで、要するに、想像上のインク壺で、だから、マイムだけでやりたいのです。よろしいですか?」
すると、氏は笑いながら答えた。
「それそれ、それを言いに来たんだ。前から言おうと思って忘れていた。インク壺はやめよう。効果がない」
それから、人差指を立てて、うなずきながら、こう付け足した。
「イマジネイション」
私が藁だと思ったものは、強い樹木の根で、実物の鵞ペンを架空のインク壺にひたすというおもしろい、ずるい演技を、それから一と月あまり、私は存分にたのしむことができたのである。
——一九六五年八月 自由——