デズデモーナの手巾《ハンケチ》や、福岡貢の刀や、トレープレフのかもめや、廬生の枕など、小道具が劇の展開の重要な契機となる例は昔からたくさんあって、この薬味がなかったら、劇の味はずいぶん損われるだろう。
災厄や幸福をもたらす小さな物体が、人々の恐怖や憧憬の的となり、情念をかきたて、運命を左右する様を見るたのしみは、おそらくアニミズムと表裏一体をなしており、昔は、なかなか人気のある趣向であったろうと思われる。
近代生活は、こういう物体に宿る魂をすっかり追い払ってしまったから、かれらはもっぱら、劇の環境や、劇中人物の職業や個性を説明する哀れなインデックスに成り下ってしまった。
今日、小道具が昔ながらの生命を保っているのは、童話劇の舞台で、恐ろしい魔法の杖や望みを叶えてくれる指輪は、物語の中のアラジンのランプと同様に、依然として子供たちの想像力を刺激しつづけている。
近代以後の劇で、小道具が物語の鍵となっている作品には、どことなく童話劇めいた趣がある。イタリア製の麦藁帽子がつぎつぎと事件をまきおこしてゆくラビッシュの喜劇が、そのいい例である。
今日では、小道具はまったく沈黙してしまったように見える。小道具が一種の劇的磁力を帯びていた時代は終ったかに見える。
しかし、沈黙した冷たい小物体は、劇の味に加えられた新しい香料ではないか。カミュのカリギュラが打ち砕く鏡の戦慄的な効果は、他の何物をもって代えることが出来るだろうか。小道具の命脈は、少なくとも大道具よりは、長くつづきそうである。
演出家や役者にとって、小道具は便利なものである。間《ま》がもてない時には殊に、救いの神となる。実人生においてすら、借金に来た客は掌の上で茶碗を廻し、迷惑な主人はこれ見よがしに腕時計の針をのぞきこむ。
小道具は不便なものである。心ないかれらは、しばしば、芝居をめちゃくちゃにする。物体は物体の方法に従う。三一致の法則などは眼中にない。かれらは柔順に見えるが実は意地悪く、誠実そうに見えるが気まぐれで、手に負えぬほど頑固かと思うと、時には呆れるほどへなへなの弱虫になってしまう。
ステッキ
グリーボフのフィルスがせりふを言い終る。
遠くから、弦の切れるような音。
それが長く尾をひいて、今まさに消えようとする瞬間、フィルスの手を離れたステッキが、ばたりと床に倒れる、と同時に幕が降りはじめる。
あのステッキの音は、一晩の「桜の園」に打たれた完璧な終止符だった。間《ま》を大事にすること、「小道具に芝居をさせる」ことを、歌舞伎や新派の流儀、日本独特の美風と思うのは誤りである。ただその間や「芝居のさせ方」の質が違うだけである。(モスクワ藝術座東京公演の折に)
鎧《よろい》
本物は重すぎて困る、というような時、名人の小道具師は思いがけない材料を使う。黄金の鋲を一面に打った私のマクベスの鎧は、布と、下駄の鼻緒どめの金具で出来ていた。
パイプ
戦後の混乱期には、なかなか思うような小道具をそろえられないことが多かった。
福田恆存作「キティ台風」を上演した時、もうとっくに中日《なかび》を過ぎているのに、私はパイプを追加注文せざるを得ない羽目に陥ってしまった。むろん小道具係はいやな顔をした。だが私としては、これでもずいぶん折れ合ったつもりなのであった。舞台へ抱いて出る本物の猫を、ずいぶん苦労して探して、ようやく見つけて譲りうけて、毎晩電車で家へ連れて帰るわけには行かないから、楽屋で飼ってもらっているうち、食料難に堪えかねたらしく、夜中に檻を破って行方不明になってしまったのである。仕方がないではないか! なんだ、パイプぐらい!
剣
舞台のうえで起る不測の出来事は、取りかえしがつかない。映画ならば、いくらでも撮りなおすことができるが、芝居は、そうは行かない。どんなに手順をととのえ、間違いのないように気をつけていても、とんでもない事が起って、進退きわまってしまうことがある。
「ハムレット」の大阪公演中に、決闘の場で、剣が折れた。
こんどの演出では、あそこは大切な場面である。あくまで美しく激しくエネルギッシュに演じなければならない場面である。フェンシングを指導してくれた三井山彦氏から、十分に使い込んでない新しい剣は折れやすいという注意があったので、稽古中ずっと使っていた剣を舞台でも使うことにした。審判役の廷臣オズリックが予備の剣を数本あずかっている。万一の場合はそれを使うことになっていた。
ある晩、レアティーズの打ち込んできたのを切り返した途端に、変な音がして、細い黒い翳が横へとんだ。私の剣が少し短くなったようである。かまわぬ、と決めた。攻撃に出る。激しい数合。
「一本!」「まだだ」「審判?」
「一本、は、たしかに」廷臣達の拍手。見ると、少し短いどころではない、剣尖から三分の一ほどの部分が無くなってしまっている。これでは後の試合に差支えると思い、オズリックに声をかけた。
「剣が折れた。代りをくれ」
言ってから、しまったと思った。ひどいことを言ったものだ。代りをくれとは、飯の催促でもしているようなせりふである。が、もう間に合わぬ。べつに誰も笑わず、新しい剣で試合は無事に続けられたが、ハムレットの気持は、しまったと思った時に折れ、そして幕切れまで折れたままだった。
ところがその翌晩、また剣が折れた。第二試合の最中だったが、こんどは真二つに折れてしまったので、いやでも試合を中止せざるを得なかった。昨夜でこりているから、余計なことは言わなかったが、こういう事故が二晩もつづくと、意気は甚だ揚らなくなる。第三試合はスピードもテンポもがったりと落ちて、中気病みのフェンシングのようになった。エネルギッシュどころのさわぎではない。幕がおりてからレアティーズの仲谷昇と二人で、二度あることは三度あるぞなどと、冗談をいって笑ったが、何とも憂鬱な気分だった。
翌晩、冗談は本当になった。剣はまたしても折れたのである。
切先に毒を塗ったレアティーズの剣を奪い、相手を仆す。そして「切先に毒まで! そうか、それなら、ついでにもう一度」——
くるりと向き直ってクローディアスを刺した、と思った瞬間、剣身がなくなった。クローディアスのマントに捲かれて、音もたてずに、ほとんど根元から折れてしまったのである。何をどうする暇もない。「不義、残虐、非道のデンマーク王!」やぶれかぶれとはこのことであろう。私は折れ残りの五寸ばかりの部分でクローディアスを無茶苦茶につつき、ネジ廻しでも使っているような恰好でギリギリと止めを刺した。どっちが残虐だか分ったものではない。そして私はクローディアスの止めを刺しながら、同時にいくらかは、この執拗な舞台的事故に止めを刺しているような気もしていた。——完全な喜劇である。
幸いなことに、剣はその後、東京の千秋楽まで、一度も折れなかった。私達のフェンシングの腕がいくらか上ったせいであろうか。それともあのネジ廻しの止めがきいたせいであろうか。
重箱 椀
福田恆存作「竜を撫でた男」の第一幕は、元日である。精神病医佐田家則の書斎兼応接間には、鏡餅の三方《さんぼう》が飾られている。
年賀の客が来る。屠蘇《とそ》が出る。朱塗りの三つ組の盃が客たちにわたる。蒔絵の重箱が出る。雑煮の椀が出る。外は雪である。ストーヴはあかあかと燃えている。小道具はそろっている。機智にとんだ会話が賑やかにつづく。この喜劇の初演は十一月だったが、舞台には新年の気があふれていたらしい。
らしい、と言うのは見た人の話を聞いたからで、佐田家則を演じていた私は正月気分どころではなかった。重箱と椀の中身が問題なのである。
毎日本物を仕入れるだけの予算がないから、おせちも雑煮も代用品である。伊達巻とかまぼこは、カステラと食パンでできている。沢庵と大根をつかうと、喰べるときに音がして具合がわるいことは、落語の「長屋の花見」の教える通りである。黒豆、芋、くわいの類は、チョコレートやらマシマロやら、すべて甘ったるい菓子類でこしらえてある。
そういうものをいくつか食べて、さて朱塗りの椀の蓋をとる。なまぬるい白湯に、麩が浮いている。温泉の鯉ではあるまいし、これで正月気分になれとは殺生な話である。
おまけにこの精神病医は、節煙の目的でやたらに仁丹をたべる。食パンとマシマロと湯づけの麩と仁丹をつづけて食べるとどんな味がするか、食べた人でなければわからない。
このとき私の妻の役を演じたのは田村秋子さんで、恋人の役を演じたのは杉村春子さんであった。杉村さんは私に芝居を教えてくれた人である。田村さんは杉村さんの先輩にあたる。かりに重箱や椀の中身が本物だったとしても、こういう妻と恋人を相手に芝居をするのは寒稽古にはげむようなものだったから、正月気分になれるはずはなかった。
本
かねがね私は、古本掘り出しの大穴場は、映画撮影所の小道具倉庫だと信じている。その日撮影するセットへ入って、本棚が出ていたら、何はともあれ目を通すに越したことはない。現代劇だと、大体見なれた本がならぶから大して驚かないが、明治大正物となると、とんでもない本が見つかることがある。
A撮影所では、森林太郎訳「マクベス」「続一幕物」。B撮影所では、徳田秋声「あらくれ」。C撮影所では、夏目漱石「道草」、木下杢太郎「えすぱにあ・ぽるつがる記」、雑誌「白樺」その他。
お断わりしておくがこれらはみな初版である。蔵書家の探し求めるこういう本が、ただセットを飾り、役者の持道具となるために、埃の中に眠っているのである。
さすがに開いた口がふさがらなかったのは、大島渚監督の「日本の夜と霧」という映画に出た時のことである。私の役は大学の仏文の講師であった。寄宿舎のセットで、私は原書を一冊持ちたいと申出た。間もなく小道具係が持って来てくれたのは——ヴァレリーの「ユーパリノス」の初版本だった!
弓 矢
松本幸四郎一座と文学座との合同公演で評判になった「明智光秀」の千秋楽の出来事である。
この公演で私は織田信長を演じていたが、不評でくさっていた。こういう時には、せめて最後の一日が最良の出来となるようにと祈る気持と、早く終ってしまえばいいという気持が同時にはたらく。
本能寺の欄干から、信長は重籐《しげとう》の弓をきりきりと引きしぼり、庭先に忍びよる明智方の武士に矢を放つ。矢は武士の咽喉をつらぬく。これには仕掛がある。放つと見せた矢は、実はうしろの障子のかげへ投げ捨てるのだ。弦が鳴り、弓を持つ手が返る、と同時に武士は隠し持った別の矢を首に刺さったように見せながらのけぞるのである。
その晩、弓に矢をつがえて庭先を見ると、肝腎の武士がいない。待っている。出てこない。おかしいぞ、と気がついた時には遅かった。横のほうから、いきなり鉄面《かなめん》をつけた雑兵が二人とび出し、雄叫《おたけ》びをあげながら突進してくる。私はあわてた。目の先一間に迫った色の白い大柄な雑兵の黒皮胴めがけて、ほんとうに矢を放ってしまった。色の黒い小柄なほうが激しく切りかかってくる。大柄なほうもむやみにあばれる。私は重籐の弓を子供の喧嘩のように振り廻しながら、ほうほうの態で退場した。
後でわかったことだが、二人の雑兵は幸四郎さんと又五郎さんであった。幸四郎さんに怪我をさせなくてよかった。歌舞伎流の千秋楽の祝い方も、馴れぬ身にはなかなか辛いものである。
——一九六五年一月 文藝春秋——