数年前、朝吹登水子さんからモーリス・ジャールの「舞台音楽」というレコードをいただいた。
「国立民衆劇場のための」という添え書の示す通り、ジャールがそこの芝居——通称TNPの芝居のために書いた舞台音楽の抜萃集であって、表裏二面に「リチャード二世の序曲」だとか、「スガナレルの主題」だとか、「寺院の殺人の合唱曲」だとかいう短い音楽が、二十あまり入っている。
ジャールはルイ・オーベールの弟子らしい。これは朝吹さんからの又聞きだが、ジャールの才能を認めてTNPへ連れて来たのは、自分もそこの専属俳優だった故ジェラール・フィリップで、主宰者のジャン・ヴィラールにジャールの音楽を聞かせたところ、即座に音楽監督として迎えられることになったという。
このレコードには、音楽だけでなく、芝居の方も入っている。ただし、主は音楽で、芝居の方はあくまでも従だから、対話は一つもない。「ドン・ジュアン」とか「リュイ・ブラス」とかのごく短い、たまにいくらか長いさわりの独白を、TNPの役者たち——ヴィラールやフィリップたちがしゃべる。これが十あまり入っている。歌もいくつかある。
「ホムブルクの公子」のように五つの曲と三つの独白から成るかなり長い部分もあり、「にわか医者」のように前奏曲一つだけというのもある。劈頭《へきとう》、爽やかに鳴り響く「ロレンザッツィオのファンファーレ」は、最後にも使われている。
抜萃集でありながら、少しも平面的な羅列的な印象を受けないのは、ひとつにはむろんジャールの音楽が優れているからである。ジャールの音楽は、どの一つをとってみても、それぞれの戯曲の固有の質が溶解して音のなだらかな流れになって響いている、という感じがする。
その音楽とせりふとの続き具合、混り具合がまた実に巧妙で何度聴いても飽きない。女声の語り手が進行役をつとめるが、この語りの文句もよく考えてあって、解説の役を果しながら、劇中独白と同様に、「語られる言葉」として音楽と共鳴するようにつくられている。プログラム全体は、絶えず変化しながら均衡を保って徐々に高まってゆく波のように、緊密に、効果的に構成されている。
こういうレコードだから、どの音楽が良いとかどの独白が面白いとか言ってみても始まらない気がするが、圧倒的なのは最後の「マクベス」で、実をいうと私がこのレコードをかけるのは、いつでもこの「マクベス」を聴きたいからなのである。ことに、マリア・カザレス演ずるマクベス夫人の夢中遊行のくだりは、独白と音楽の渾然一体となった正に傑作としか呼びようのない場面である。
バッグ・パイプと太鼓が、スコットランドの荒野をわたって聞えてくる。三人の妖婆のけたたましい笑い声が、女声の風の悲鳴を突き裂いて夜風にひびいて消える。ピアノと太鼓。ヴィラールのマクベスの終幕の独白、「あすが来、あすが去り、さうして一日一日と小きざみに、時の階をずり落ちて行く、この世の終りに辿りつくまで……」(福田恆存訳)
そして、ピアノと弦の「夢遊病の主題」が緩慢な鼓動のように聞えはじめ、やがて途絶える——と思うと、また鳴りはじめ、しばらくつづいてまた止む。物憂い声が言う、「まだ、ここに、しみが」
この最初の一言で、もうカザレスは、聴く者をしっかり掴んでしまう。後は、黙ってついて行くだけである。
音楽は相変らず重病人の脈搏のように途切れてはまた現われ、ゆるやかに、単調に、最後までつづく。その中で、マクベス夫人はつぶやき、眠りながら語り、沈黙し、溜息をつき、叫び、身をもだえる。「消えてしまへ、呪はしいしみ! 早く消えろといふのに! 一つ、二つ、おや、もう時間だ。地獄つて、なんて陰気なのだらう!……」
ジャールの舞台音楽は、いつでも、それぞれの戯曲の含んでいる固有の空気や光の中で、固有の劇中人物の血や肉の中で鳴っているような感じがする。そういうところから「聞えてくる」音楽である。音楽自体を「聴かせよう」とはしないが、役者のせりふを「聴いている」人々に、いつの間にか、劇自体を「聴かせている」音楽である。
能や歌舞伎やオペラやミュージカルを持ち出すまでもなく、音楽と芝居とは、昔から仲の良い姉妹だが、せりふを主とした芝居でこれほどうまく折り合えれば文句はない。いつもせりふを「聞いてもらっている」私が、こんなことを言うと、音楽に文句がないのあるのと言える柄かと、文句を言う人がいるかも知れないけれど……。
——一九六四年八月 音楽の友——