今日でこそ、上演する戯曲(台本)を読むことが役者の最初の仕事であることを、誰も疑うものはありませんが、それがごくあたりまえのこととして、一般に通用するようになったのは、近代劇運動以後、二十世紀に入ってからのことで、それまでは、日本でも西洋でも、役者は戯曲を読まずに稽古をはじめていました。自分のせりふだけを抜萃した「書き抜き」をもらって稽古をはじめていたのです。日本ではこの「書き抜き」の習慣が、今日でもまだ、一部に残っているようです。
役者は作家の精神と心情の所産である戯曲の世界を眼のあたりに実現させるために、戯曲を読みます。
戯曲の中には人物達がいます。彼等の行動や生活や、運命や、その周囲にある架空の世界は、あらかじめ定められております。そういうものを、役者は、やがてかけがえのない自分の現実として生きるために、戯曲を読むのです。
役者は繰返して戯曲を読み、戯曲の中へ入ってゆかなければなりません、そして、本来自分のものではない行動や、生命や、運命や、世界を、完全に自分のものにして、戯曲から出てゆかなければなりません。それらのすべてを、自分の内部へ吸収して、自分の肉体と心情との内に滲み通らせて、戯曲の向う側へ、現実の対岸へ、演劇的現実の方へ出てゆかなければなりません。そして、あたかも元の書かれた戯曲が存在しなかったかのように、自由に感じ、行動し、生きて見せなければならないのです。
いわば役者は、そこに書かれてある言葉を、もっとも生き生きと、正しく語り得る身体と心の状態をつくりあげるために戯曲を読むのです。