はじめて台本を読む役者は、期待して、最初の頁をあけます。そこには、登場人物の名前がならんでいます。
三十以上もならんでいることもあり、三つしかない場合もあります。名前ばかりでなく、職業や、年齢や、人物の関係が書いてあることもあります。いずれにしても、こういう登場人物の表は、戯曲を読むうえの便宜、手がかりのためにあるので、大して意味のあるものではないと思われがちです。
しかし、これから戯曲を読もうとしている役者はこのあたらしい名簿から、まさに自分の前にひらかれようとしている戯曲の世界を、すでに漠然と感じとることができるはずです。
——影山悠敏伯爵、同夫人朝子、大徳寺侯爵夫人季子、その娘顕子、清原永之輔、その息久雄、飛田天骨、女中頭草乃、……舞踏会の紳士淑女。三島由紀夫の「鹿鳴館」
——閣下、その娘、飼育係、秘書、探検家、女中、運転手、ウェーの男、ウェーの女、……巨大な祖父の像。安倍公房の「どれい狩り」
——アマノ、ステラ、エリザ。岸田国士の「チロルの秋」
——河野松子(六十歳近く・健の未亡人)、同杉子(五十二、三歳・その妹・独身)、同瑞枝(三十七、八歳・松子の長女)、同祥枝(三十四、五歳・松子の次女)、同康夫(四十二、三歳・瑞枝の夫)。福田恆存の「明暗」
際立った例ばかりあげたようですが、どんなに目だたぬ、平凡な名前ばかりがならんでいたとしても、それはそれなりに、作者の気質や意図を示しているものと考えた方がよいのです。
登場人物の表を、時や所の指定とともに、これから読む戯曲についての大ざっぱな予備知識をあたえてくれるだけのものとして見すごしてしまうのは、勿体ないと思います。そこには、作者がその戯曲にあたえた固有の性格や、雰囲気や、風味の微妙な先触れが感じられるからです。