そういう意味も含めて、私は、ヴァルターについて、解釈のうえでの一つの仮説を立てる。
ヴァルターは、二十世紀の真中までもちこまれた古き良きヨーロッパの音楽の体現者だった、と。《古き、良き》。また彼の場合、この《古き、良き》というのは、ほとんど十九世紀を通じてみた十八世紀の姿に通じる。
周知のように、ヴァルターは、モーツァルトの最良の指揮者の一人に数えられると同時に、マーラーの最も正統的解釈家といわれてきた。ヴァルターの芸術のほとんどすべては、この両者を結ぶ射程の中に入ってくる。モーツァルトが起点であり、マーラーはその後の発展の末のふりかえりと憧《あこが》れとして捉《とら》えられる。この間に入るものは、一口でいえば、十九世紀ヨーロッパの和声的単音楽(Homophony)の時代の作品である。和声は、ベートーヴェンからシューベルトを経て、ヴァーグナー、リストにいたるまで、ひたすら複雑へ、複雑への道をたどる。それと並行して、指揮者の楽器、つまり管弦楽も複雑化し、大型化する。
こういう点では、フルトヴェングラーやトスカニーニも、もちろん、大雑把《おおざつぱ》にいえば、同時代人である以上、同じ型の音楽をやったはずだ。だが、フルトヴェングラーには対位法的要素がもっと強靱《きようじん》にあり、トスカニーニはイタリア・オペラのあの旋律とそれにつけた伴奏とからなりたつ、いわば単旋律音楽(Monody)の伝統を深く身につけている。こういうのを、指揮者の基本的な分類の仕方ととられては困るが、しかし、彼らの感受性の方向と思考の手法は、こういうことと無関係ではありえない。
もちろん、この二人のなかでは、ヴァルターはフルトヴェングラーにより近い。レパートリーでもそうであるし(ヴァルターに、イタリア・オペラをふったことがないとは考えられないが、レコードはない。その機会はごく少なかったのではなかろうか? 彼はフルトヴェングラー以上に、十九世紀ドイツ・オーストリアに曲目を限っていた観がある)、チャイコフスキーさえ、彼は、たとえ手がけたとしても、ニキッシュやメンゲルベルクはもちろん、フルトヴェングラーがもったほどの共感ももちえなかったのではないかという気がするくらいだ。
それはともかく、ほとんど徹底的にドイツ・オーストリア系の和声的単音楽が中心だったということが、ヴァルターの場合、どういう演奏の特徴となって現われているか?