たとえば、モーツァルトの『ト短調交響曲』(K五五〇)のアンダンテ音楽は、その目ざましい例だが、実は、これはどこでもきかれる。
「ヴァルターの指揮は、暗く柔らかく、よく歌う演奏に導く」。これは、ヴァルターといえば、いつもいわれることである。私も、これには異存がない。それにもう一つ「ヴァルターはけっしてオーケストラに過度な烈しさを要求しない」ということもつけ加えておこう。この《烈しさ》というのは、何もダイナミックな爆発的な荒々しさというだけの意味ではなく、弱音の扱いについても、そうである。彼のピアノ、ピアニッシモは、フルトヴェングラー、カラヤンなどにくらべると、彼らの聞こえるか聞こえないほどのかすかな音でありながら、異常な緊張力にみちたピアニッシモといったあの凄味《すごみ》をもたない(フルトヴェングラーの指揮したベートーヴェンの『第九』の終楽章、例の〈歓喜の歌〉の主題の導入など、この好例である)。
指揮者ヴァルターの芸術の根本は、この「よく歌わせる」演奏にあるのだが、しかし、「歌う」「歌わせる」指揮とはどういうことか?
私は前に、彼は低音を強調するといったが、このことと、「歌わせる」というのは、深い関係にある。
ベートーヴェンの『第五交響曲』を、まず、例にとろう。
この交響曲は、もちろん、特に「よく歌う」といった様式でひかれるのが主眼の音楽ではない。誰もが知っているように、これは音楽を構成していく手続きが、あの「運命が戸を叩く」主題から発して、ほとんど、それによって終始しているところの、構成の奇蹟《きせき》的傑作である。それに、ここにはもう伴奏というものもない。副声部も埋め草的楽想さえも、ほとんどすべて、この主題の処理によって作り出されている。
ヴァルターのレコードできくと、第一楽章の初めの主題は、リズムの点でかなり曖昧《あいまい》である。初めのフェルマータ(第二小節)は、ほぼ四分音符六つの長さだが、つぎのそれ(第五小節)のは、六つにややたりない。六つが完全に終わりきらないうちに、つぎのト音に入ってしまっている(譜例1)。
これはおかしいのであって、二度目のフェルマータは、一小節の二分音符があったのち、つぎの小節の二分音符についているのであるから、もしフェルマータの平均的なのばし方を、本来の音価の倍にとるとすれば、初めは四つ、二度目が六つの割合になってしかるべきものだ。これはカラヤンがほぼとっているところであり、フルトヴェングラーも、たしか、二度目をはるかに長くとったと覚えている。ヴァルターのは、いわば戸を叩くその音のショックが、最初の時最も衝撃的で強力だというだけでなく、二度目のフェルマータでこの主題的楽想が一端とぎれるというのと逆で、こちらが、それからあとに続く音の流れによりなだらかにつながってゆくのである。
この連続性、あとにつづくものへの流れ具合のなだらかさ、これが、私たちの聴後感としてのこる「よく歌う演奏」という印象と、強く関係する。
以下各楽章にわたって細説する余裕はないが、こういう精神の働きは随所にみられる。総体にヴァルターのフェルマータの扱いは、短めである。マーラーの、たとえば『第一交響曲』の終楽章には、実に数多くのフェルマータが書きこまれているが、ヴァルターは、それを、まるで歌手が一息つく、いわゆるルフト・パウゼ的に、ごく短い休止をはさむ機会として解釈しているかのようだ。歌のつづき具合の問題なのである。ヴァルターの旋律は、呼吸している。
だが、彼の指揮する『第五』に、もう一度戻り、この彼の「歌う」様式が、随所に出るというだけでなくして、つぎに、それが、どう歌われるか? ということを、もう少し考えなければならない。
私は、ヴァルターがバスを強調する傾きがあると書いた。「歌う」というのは、今書いたように第一に呼吸を感じさすということだが、それはまた、テンポのごく目立たない緩急、つまりテンポ・ルバートその他ののびちぢみの問題でもある。だが、第三に、こういうことがある。それはヴァルターに典型的にみられるのだが、旋律の呼吸にクレッシェンド、ディクレッシェンドのダイナミックな変化を加えることである。ヴァルターの特徴は、そのクレッシェンドに当たって、特にバスの強調に力を入れていることによくみられる。
バスは、和声的単音楽《ホモフオニー》の場合、単に低い音域の声部というだけでなく、これは和声の根本になる声部である。そのバスが強いと、倍音関係で織りなされている和声上の共鳴音がより充実してくる。響きそれ自体として、あるいは重厚に、あるいは生理的快感を喚起するだけでなく、何というか、いかにもりっぱな音楽をきいたという充実感を呼びさます。こ れの最適例の一つは、『第五』の終楽章、それもコーダに入ってからみられる。『第五』のこの個所は、やたらと長くて、もう音楽としては、大切なことはいい終わってしまっているのに、ベートーヴェンがいつまでも《勝利》の快感を圧倒的で全体的なものにするために、いつまでも、終止形をくり返しているといった印象を与えかねないのだが、ヴァルターのは、ここにきて、俄然《がぜん》すばらしい音楽になる。その見事さはたとえようがなく、私はこういう例は、ほかには知らない(譜例2)。
この譜例は同じ楽想でも最初の、ファゴットではじまる管でなくて、二度目の弦のユニゾンでひかれる個所を指す(ことわっておくが、私の今例にとっているレコードは、コロンビア交響楽団の演奏するステレオ盤で、ニューヨーク・フィルによるモノーラル盤ではない)。
このフィナーレは、これ以下もすばらしい出来だが、ほかにも、こういう例はいくらでもある。たとえば、シューベルトの交響曲。特に『未完成』の見事なことは、もちろん、歌う音楽を演奏する以上、当然予想されるわけだし、演奏団体もそれを裏切らない。だが、この場合『未完成交響曲』の主要な旋律——というより、素人的にいえば、ききどころのふしが、いずれもチェロを主体とした低音楽器によってまず提出されていることも見逃せない。それにホルンがつきそっていたり、あるいはホルンがいつまでも音を保続してオルゲルプンクト的に働いている場合、深い響きの、安らぎにみちた、充足感とでもいったものは、当然誰がやっても出るはずだが、ヴァルターの指揮する場合ほど、明らかに強調されるのは、いつも、みられるとは限らない。
それにくらべて、先に書いたように、、の表現には、微妙さは欠けていないが、緊張力が弱い。『第五』のスケルツォは、これまたごく手近の例である。ここでは、ベルリオーズが「象が群がって踊っているような」と呼んだ、あの低音からはじまるフガートのトリオがすごいのにくらべて、スケルツォの主要部は、テンポがのびやかすぎ、あまりにも凄みに欠ける。また、トリオのあとの、いわばスタッカート的断続の音楽から、フィナーレへの橋となってティンパニの連打の上で音楽が流れてゆくあたりは、実に「音楽的」なのだが、終楽章の再現の前のスケルツォの回想は奇妙に影のうすいものになる。